鈴本演芸場で上演される演芸すずもとえんげいじょうでじょうえんされるえんげい

東京メトロ上野広小路駅A3出口から徒歩1分にある寄席*1。地上5階建てビルの3・4階が吹き抜けの演芸場になっており、席はすべて椅子席で285席ある。出し物(番組)の中心は落語*2で落語協会*3所属の落語家が高座に上がる。これに漫才・奇術・音曲などの色物*4が出し物に加わり、10日ごと(上席・中席・下席)に内容を変え、昼の部、夜の部の2部制で公演している。月末には独演会なども開催される。
 鈴本演芸場の歴史は、1857(安政4)年に現在の席亭(主人)の祖先、初代龍助(後の鈴木仙之助*5)が、上野広小路の西側に「軍談席本牧亭*6」という講釈*7場を開いたのが始まりで、現在の東京の寄席ではもっとも歴史が古い。1876(明治9)年には、同じ上野広小路の東側に移転し、名称を「鈴本亭*8」に改め落語を中心とした寄席になった。この頃には、夏目漱石*9をはじめ、文豪、文化人もたびたび来場し、落語など庶民芸能を愛でた。さらに、関東大震災後の1923(大正12)年に現在地へと移り、第二次世界大戦で焼失したものの、戦後すぐに復活し、その後、鈴本演芸場と名称も変更された。また、1950(昭和25)年には、鈴本演芸場の席亭により講談(江戸期では講釈と称した)専門の本牧亭を鈴本演芸場の裏手に再建しているが、こちらは1990(平成2)年に閉場している。一方、鈴本演芸場は1971(昭和46)年にビルの中の寄席として全面改築され、客席・舞台は3階に設けられた。かつては桟敷席だったが、現在は椅子席となり、近代的施設を有する寄席となった。
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みどころ

鈴本演芸場は東京でもっとも古い寄席であるが、椅子席で近代的な設備が整っており、気軽に演芸を楽しむことができる。高座にのぼる落語家も新作から古典まで幅広い演目を演じている。また、出し物に多種多様な色物も挟み込まれており、江戸時代からの庶民演芸をたっぷり半日、楽しむことができる。
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補足情報

*1 寄席:江戸で寄席が本格的に設けられるのは古くは寛政期(1789~1801年)、多くは文政から天保期の前半頃(1818~1840年頃)にかけてつくられていったものが多いといわれている。当時は、1階を住居に、2階を寄席とした町家で行われていたという。文政末期(1829年頃)には125軒にもなったという。寄席では、浄瑠璃、小唄、講釈、軍書読、手妻(奇術)、説教、物まね尽くしなどが演じられていたとされている。江戸でははじめ「寄せ場」といっていたが、その後略されて「寄席」となったという。しかし、天保の改革の一端で、1842(天保13)年に音曲鳴物が禁止され、噺(咄・はなし)と講釈だけを演じる15軒に絞られてしまった。しかし、1845(弘化元)年になり、寄席勝手次第となり急激に寄席が増え、幕末には軍談220軒、落語172軒の席があったとされる。鈴本演芸場もこのなかで、「軍談本牧亭」として誕生した。明治に入ると、「寄席取締規則」が定められ、寄席は「藝人の講談・落語・浄瑠璃・唄・音曲その他の演藝を公衆に聴聞せしむる場所」と定義された。1903(明治36)年版の東京市の統計では135軒の寄席があったとし、東京市が1907(明治40)年に発行した「東京案内上巻」では142軒の寄席が掲載されている。また、1898(明治31)年発行の「東洋大都会」の寄席一覧には上野広小路「鈴本亭」の名も挙げられている。現在は、東京の常打ちの寄席は、「鈴本演芸場」をはじめ「新宿末広亭」、「浅草演芸ホール」、「国立演芸場」「池袋演芸場」の5か所に限られている。
*2 落語:江戸時代中期に、それまで武士、貴族の間で好まれていた滑稽話が庶民にも広がり、滑稽話や人情話を一人で面白おかしく話す話芸に発展した。最後に気の利いた結びを入れることが多く、これは「オチ」あるいは「サゲ」と言われるようになった。なお、江戸時代は演者は「噺家」と呼ばれ「落語家」と称されるようになったのは明治時代以降だとされる。
*3 落語協会:東京における落語家の団体は、4つの協会、流派、団体に分かれている。比較的古典に重きをおき多様な色物芸人・落語家が所属する「落語協会」、新作落語の名人を数多く輩出し、現在も幅広い分野の芸人・落語家が所属する「落語芸術協会」、1983(昭和58)年に立川談志が落語協会から分離独立した「立川流」、その後、同様に落語協会から分かれた「五代目円楽一門会」がある。鈴本演芸場は落語協会、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場は落語協会と落語芸術協会の双方の落語家が高座に上がる。「立川流」と「五代目円楽一門会」はホールや特設の会場などで活動している。
*4 色物:漫才、手妻、物まね、小唄などを指す。漫才はもともとは新年を祝う門付け(家々を回る)の「万歳」から始まったが、これに明治、大正期に笑いの要素が加えられ、「漫才」となった。基本的には2人の演者が互いの芸を掛け合うことから始まったが、昭和初期に「横山エンタツ・花菱アチャコ」により、会話だけで演じるスタイルが確立された。手妻は日本の伝統的な奇術。
なお、浪花節(浪曲)については江戸時代に作れらた物語を三味線の音色に合わせ、節回しで伝える「語る演芸」といわれ、明治から昭和にかけては大衆芸能の中心的存在のひとつとなり、落語や講談とは別の公演形態がとられてきた。現在は常打ち館が東京と大阪に1軒づつある。
*5 鈴木仙之助:明治に入り「平民苗字許可令」や「平民苗字必称令」の公布に伴い、鈴木仙之助を名乗る。
*6 本牧亭:江戸末期の上野界隈は、不忍池がもっと広く、丘陵が張り出していたところから、横浜の地形に似ていたとされ、それにちなみ「本牧」の名にしたという。諸説あり。
*7 講釈:江戸時代に軍学・軍記物、偉人伝を釈台という机を前に講じたり、朗読した寄席演芸の一つ。明治以降は講談と呼ばれるようになった。江戸末期には軍談寄席、講釈場などで演じれらた。
*8 鈴本亭:明治に入り姓を「鈴木」と名乗ったことから、「本牧亭」の一字をとって「鈴本亭」としたいう。
*9 夏目漱石:落語好きの明治の文豪は多いが、とくに夏目漱石はよく知られ、「鈴本亭」にも通っていたという記録が残されている。例えば、門人の寺田寅彦の1905(明治38)年8月27日の日記には「夏目先生を訪ふ。野村君約により来る。鈴本亭の落語を誘ふ。先生は午後晩翠等と快(偕)楽園にて集会の約ある由なれど強いて誘ふて行く。落語等は満員客止なり」と記されている。晩翠とは詩人の土井晩翠のことで、彼の留学からの帰朝祝賀パーティをさぼって「鈴本亭」に行ったが、満員で入れなかったという。また、この時、同行した「野村君」はやはり門人の野村伝四で、夏目漱石との思い出の随想「散歩した事」のなかでも「落語ばかりで他を交えない落語研究会と云ふのが出来たのであり、その第一回は蔵前の何とかと云ふ寄席催された。而して私は先生(夏目漱石)に誘われて行った…中略…下谷広小路辺りの鈴本亭其他で、月一回場所を代えて興行」していたとし、「先生宅出入の諸君も頗る熱」があったと、ここでも「鈴本亭」の名が出て来る。
関連リンク 上野鈴本演芸場(有限会社鈴本演芸場)(WEBサイト)
参考文献 上野鈴本演芸場(有限会社鈴本演芸場)(WEBサイト)
一般社団法人落語協会(WEBサイト)
「漱石全集 別巻 野村伝四『散歩した事』」岩波書店 1996年版
「寺田寅彦全集 第19巻日記(Ⅱ)」岩波書店 1998年版
「東京案内 上巻」東京市市史編纂係編 明治40年 179/407 国立国会図書館デジタルコレクション

2025年06月現在

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