末廣亭で上演される演芸すえひろていでじょうえんされるえんげい

JR新宿駅東口から東へ約500mほどのところにある寄席*。末廣亭は落語*を中心とはしているが、漫才・奇術・音曲などのいわゆる色物*にも力を入れており、10日ごと(上席・中席・下席)に内容を変え、昼の部、夜の部の2部制で公演し、落語協会と落語芸術協会*の落語家・芸人が交互に出演する。現在の末廣亭の建物は1946(昭和21)年に建てられた木造建築で、明治から昭和初期の寄席の雰囲気を残している。1階は中央に椅子席、両サイドが畳敷きの桟敷席となっており、混雑時は2階の桟敷席も開放される。席数は合わせて313席。
 創業*は1897(明治30)年に講談・色物の寄席として新宿追分で開業した堀江亭とされるが、1907(明治40)年の東京市発行「東京案内」では、すでに「末廣亭」として紹介されている。1932(昭和7)年に日本芸術協会(現・落語芸術協会)の拠点として落語を中心とした寄席になったが、第二次世界大戦で焼失。1946(昭和21)年に現在地でいちはやく再建し、戦後間もない混乱期から笑いを届けている。
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みどころ

末廣亭は、入る前からかつての寄席の雰囲気を味わうことができる。まず、表に掲げられた独特な寄席文字で書かれた演者名などの手書き看板や提燈が目に入る。提燈がぐるりと巡る館内は、さらに寄席気分を盛り上げてくれる。高座には床の間もあり、明治から昭和初期にかけての寄席の雰囲気を残しているという。番組は色物も多くバラエティに富み、昼夜の2部制だが入れ替え制ではないため、のんびりひがな一日笑いを楽しむことができる。桟敷席がより一層ゆったり感を演出してくれる。
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補足情報

*寄席:江戸で寄席が本格的に設けられるのは寛政期(1789~1801年)、多くは文政から天保期の前半頃(1818~1840年頃)にかけてつくられていったものが多いといわれている。当時は、1階を住居に、2階を寄席とした町家で行われていたという。文政末期(1829年頃)には125軒にもなったという。寄席では、浄瑠璃、小唄、講釈、軍書読、手妻(奇術)、説教、物まね尽くしなどが演じられていたとされている。江戸でははじめ「寄せ場」といっていたが、その後略されて「寄席」となったという。しかし、天保の改革の一端で 1842(天保13)年に音曲鳴物が禁止され、噺(咄・はなし)と講釈だけを演じる15軒に絞られてしまった。しかし、1845(弘化元)年になり、寄席勝手次第となり急激に寄席が増え、幕末には軍談220軒、落語172軒の席があったとされる。明治に入ると、「寄席取締規則」が定められ、寄席は「藝人の講談・落語・浄瑠璃・唄・音曲その他の演藝を公衆に聴聞せしむる場所」と定義された。東京市が1907(明治40)年に発行した「東京案内上巻」では、142軒の寄席が掲載されており、1897(明治30)年に創業した、末廣亭も豊多摩郡内藤新宿の欄に講談・色物の寄席として名が挙げられている。現在の東京での常打ちの寄席は、「末廣亭」をはじめ、「鈴本演芸場」、「浅草演芸ホール」、「国立演芸場」(休業中)、「池袋演芸場」の5か所に限られている。
*落語:江戸時代中期に、それまで武士、貴族の間で好まれていた滑稽話が庶民にも広がり、滑稽話や人情話を一人で面白おかしく話す話芸に発展した。最後に気の利いた結びを入れることが多く、これは「オチ」あるいは「サゲ」と言われるようになった。なお、江戸時代は演者は「噺家」と呼ばれ「落語家」と称されるようになったのは明治時代以降だとされる。
*色物:漫才、手妻、物まね、小唄などを指す。漫才はもともとは新年を祝う門付け(家々を回る)の「萬歳」から始まったが、これに明治、大正期に笑いの要素が加えられ、「漫才」となった。基本的には2人の演者が互いの芸を掛け合うことから始まったが、昭和初期に「横山エンタツ・花菱アチャコ」により、会話だけで演じるスタイルが確立された。手妻は日本の伝統的な奇術。なお、浪花節(浪曲)については江戸時代に作れらた物語を三味線の音色に合わせ、節回しで伝える「語る演芸」といわれ、明治から昭和にかけては大衆芸能の中心的存在のひとつとなり、落語や講談とは別の公演形態がとられてきた。現在は常打ち館が東京と大阪に1軒づつある。
*落語協会と落語芸術協会:東京における落語家の団体は、4つの協会、流派、団体に分かれている。比較的古典に重きをおき多様な色物芸人・落語家が所属する「落語協会」、新作落語の名人を数多く輩出し、現在も幅広い分野の芸人・落語家が所属する「落語芸術協会」、1983(昭和58)年に立川談志が落語協会から分離独立した「立川流」、その後、同様に落語協会から分かれた「五代目円楽一門会」がある。末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場は落語協会と落語芸術協会の双方の落語家、芸人が、鈴本演芸場は落語協会の落語家、芸人が高座に上がる。「立川流」と「五代目円楽一門会」はホールや特設の会場などで活動している。
*創業:作家で落語研究家の正岡容は、末廣亭の前身について「『むかしの寄席』(昭和十八年版)の中の『四十年前の東都の寄席』を翻いて見るとあつた!正しく新宿追分堀江とある。あゝやつと此で席の実在丈けはたしかめられたが、では果してどの辺にあつたものなのだらう。尚もこの一点を疑念としつゞけてゐると、先代新宿末広亭主人によつて、この末広亭の前名が何と堀江亭だつたのだと偶々報告された。」とし、「末廣亭」の前身が「堀江亭」で、場所は「伊勢丹の向ふ側だつたらしい」としている。