浅草演芸ホールで上演される演芸
東武伊勢崎線・東京メトロ浅草駅から西へ約550mのところにある寄席*1。周辺は明治期から浅草公園六区(通称浅草六区)とよばれる興行街であり歓楽街で、下町の雰囲気も色濃い。「浅草演芸ホール」は5階建てのビルの1階と2階を利用し、落語*2を中心にマジック、物まね、漫才などの色物*3を交え公演を行っている。落語協会と落語芸術協会*4所属の落語家・芸人が、10日ごと(上席・中席・下席)に交互に内容を変え、昼の部、夜の部の2部制で公演している。座席は全て椅子席で、1階239席、2階101席の合計340席。同じビルの4階には漫才、漫談、コントなどの色物を中心とした「東洋館」(正式には「浅草フランス座演芸場東洋館」)が入っている(座席数202席)。
「浅草演芸ホール」の歴史は、1907(明治40)年に浅草六区に開業した活動写真館(映画館)の三友館に始まる。三友館は大正期には「浅草オペラ」*5を公演するホールの中心的な存在として賑わった。1951(昭和26)年に同館は閉館し、新たに「浅草フランス座」として開館し、ストリップ劇場として親しまれ、合間にコントやコメディ*6が演じられていた。このコント、コメディなどの軽演劇部分が、1959(昭和34)年に分離し「東洋劇場」となった。1964(昭和39)年に「浅草フランス座」は一旦閉館し、1階が東洋劇場、4階、5階に落語の常打ちの寄席として浅草演芸ホールが新設された。1971(昭和46)年の東洋劇場の閉館に伴い、「浅草演芸ホール」は1階に移された。同時に「浅草フランス座」が再開場したものの、休業・再々開業を経て1999(平成11)年に完全に閉館し、2000(平成12)年には現在の「東洋館」が開業した。
「浅草演芸ホール」の歴史は、1907(明治40)年に浅草六区に開業した活動写真館(映画館)の三友館に始まる。三友館は大正期には「浅草オペラ」*5を公演するホールの中心的な存在として賑わった。1951(昭和26)年に同館は閉館し、新たに「浅草フランス座」として開館し、ストリップ劇場として親しまれ、合間にコントやコメディ*6が演じられていた。このコント、コメディなどの軽演劇部分が、1959(昭和34)年に分離し「東洋劇場」となった。1964(昭和39)年に「浅草フランス座」は一旦閉館し、1階が東洋劇場、4階、5階に落語の常打ちの寄席として浅草演芸ホールが新設された。1971(昭和46)年の東洋劇場の閉館に伴い、「浅草演芸ホール」は1階に移された。同時に「浅草フランス座」が再開場したものの、休業・再々開業を経て1999(平成11)年に完全に閉館し、2000(平成12)年には現在の「東洋館」が開業した。

みどころ
浅草六区はいまも下町らしい華やかな雰囲気に包まれた、気軽な繁華街という風情が残る。そのなかにあっても提燈の飾りや寄席文字の看板がひときわ目立つ。浅草らしく客層も幅広く、有名なコメディアンや卓越した話芸の落語家たちを鍛え育てた所だと言っても良いだろう。昼夜の2部制だが原則的に入れ替え制ではないため、のんびりひがな一日笑いを楽しむことができる。

補足情報
*1 寄席:江戸で寄席が本格的に設けられるのは寛政期(1789~1801年)、多くは文政から天保期の前半頃(1818~1840年頃)にかけてつくられていったものが多いといわれている。当時は、1階を住居に、2階を寄席とした町家で行われていたという。文政末期(1829年頃)には125軒にもなったという。寄席では、浄瑠璃、小唄、講釈、軍書読、手妻(奇術)、説教、物まね尽くしなどが演じられていたとされている。江戸でははじめ「寄せ場」といっていたが、その後、略されて「寄席」となったという。しかし、天保の改革の一端で、1842(天保13)年に音曲鳴物が禁止され、噺(咄・はなし)と講釈だけを演じる15軒に絞られてしまった。しかし、1845(弘化元)年になり、寄席勝手次第となり急激に寄席が増え、幕末には軍談220軒、落語172軒の席があったとされる。明治に入ると、「寄席取締規則」が定められ、寄席は「藝人の講談・落語・浄瑠璃・唄・音曲その他の演藝を公衆に聴聞せしむる場所」と定義された。東京市が1907(明治40)年に発行した「東京案内上巻」では、142軒の寄席が掲載されていた。現在の東京の常打ちの寄席は、「浅草演芸ホール」をはじめ、「鈴本演芸場」、「新宿末広亭」、「国立演芸場」「池袋演芸場」の5か所に限られている。
*2 落語:江戸時代中期に、それまで武士、貴族の間で好まれていた滑稽話が庶民にも広がり、滑稽話や人情話を一人で面白おかしく話す話芸に発展した。最後に気の利いた結びを入れることが多く、これは「オチ」あるいは「サゲ」と言われるようになった。なお、江戸時代は演者は「噺家」と呼ばれ、「落語家」と称されるようになったのは明治時代以降だとされる。
*3 色物:漫才、手妻、物まね、小唄などを指す。漫才はもともとは新年を祝う門付け(家々を回る)の「万歳」から始まったが、これに明治、大正期に笑いの要素が加えられ、「漫才」となった。基本的には2人の演者が互いの芸を掛け合うことから始まったが、昭和初期に「横山エンタツ・花菱アチャコ」により、会話だけで演じるスタイルが確立された。手妻は日本の伝統的な奇術。
なお、浪花節(浪曲)については江戸時代に作れらた物語を三味線の音色に合わせ、節回しで伝える「語る演芸」といわれ、明治から昭和にかけては大衆芸能の中心的存在のひとつとなり、落語や講談とは別の公演形態がとられてきた。現在は常打ち館が東京と大阪に1軒づつある。
*4 落語協会と落語芸術協会:東京における落語家の団体は、4つの協会、流派、団体に分かれている。比較的古典に重きをおき多様な色物芸人・落語家が所属する「落語協会」、新作落語の名人を数多く輩出し、現在も幅広い分野の芸人・落語家が所属する「落語芸術協会」、1983(昭和58)年に立川談志が落語協会から分離独立した「立川流」、その後、同様に落語協会から分かれた「五代目円楽一門会」がある。浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場は落語協会と落語芸術協会の双方の落語家・芸人が、鈴本演芸場は落語協会の落語家・芸人が高座に上がる。「立川流」と「五代目円楽一門会」はホールや特設の会場などで活動している。
*5 浅草オペラ:大正中期から関東大震災(1923年)ころまで、浅草の興行界を中心に盛んに上演されたもの。オペラやオペレッタ、ミュージカルなどを大衆娯楽として取り込んだ音楽劇的な芸能。
*6 コントやコメディ:コントやコメディなどを演じていた芸人のなかから、渥美清、由利徹、東八郎など、第二次世界大戦後の昭和期に笑いを提供したコメディアンのスターが生まれた。小説家井上ひさしも台本を担当していたことがあった。その後、東洋劇場も含め、坂上二郎、萩本欽一などもこの地から育った。
*2 落語:江戸時代中期に、それまで武士、貴族の間で好まれていた滑稽話が庶民にも広がり、滑稽話や人情話を一人で面白おかしく話す話芸に発展した。最後に気の利いた結びを入れることが多く、これは「オチ」あるいは「サゲ」と言われるようになった。なお、江戸時代は演者は「噺家」と呼ばれ、「落語家」と称されるようになったのは明治時代以降だとされる。
*3 色物:漫才、手妻、物まね、小唄などを指す。漫才はもともとは新年を祝う門付け(家々を回る)の「万歳」から始まったが、これに明治、大正期に笑いの要素が加えられ、「漫才」となった。基本的には2人の演者が互いの芸を掛け合うことから始まったが、昭和初期に「横山エンタツ・花菱アチャコ」により、会話だけで演じるスタイルが確立された。手妻は日本の伝統的な奇術。
なお、浪花節(浪曲)については江戸時代に作れらた物語を三味線の音色に合わせ、節回しで伝える「語る演芸」といわれ、明治から昭和にかけては大衆芸能の中心的存在のひとつとなり、落語や講談とは別の公演形態がとられてきた。現在は常打ち館が東京と大阪に1軒づつある。
*4 落語協会と落語芸術協会:東京における落語家の団体は、4つの協会、流派、団体に分かれている。比較的古典に重きをおき多様な色物芸人・落語家が所属する「落語協会」、新作落語の名人を数多く輩出し、現在も幅広い分野の芸人・落語家が所属する「落語芸術協会」、1983(昭和58)年に立川談志が落語協会から分離独立した「立川流」、その後、同様に落語協会から分かれた「五代目円楽一門会」がある。浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場は落語協会と落語芸術協会の双方の落語家・芸人が、鈴本演芸場は落語協会の落語家・芸人が高座に上がる。「立川流」と「五代目円楽一門会」はホールや特設の会場などで活動している。
*5 浅草オペラ:大正中期から関東大震災(1923年)ころまで、浅草の興行界を中心に盛んに上演されたもの。オペラやオペレッタ、ミュージカルなどを大衆娯楽として取り込んだ音楽劇的な芸能。
*6 コントやコメディ:コントやコメディなどを演じていた芸人のなかから、渥美清、由利徹、東八郎など、第二次世界大戦後の昭和期に笑いを提供したコメディアンのスターが生まれた。小説家井上ひさしも台本を担当していたことがあった。その後、東洋劇場も含め、坂上二郎、萩本欽一などもこの地から育った。
2025年06月現在
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