鹿島神宮
JR鹿島線鹿島神宮駅の南東に、約70万m2の広大な樹叢*を有し、その中に社殿が建つ。創建については不明な点も多いが、すでに4~5世紀、大和政権が東国に進出をしていく過程における、いわゆる「東征」の重要拠点であり、祭祀も行われたのではないかといわれている。そのため、創建神話として、神武天皇が「東征」の折、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の「韴霊剣」によって窮地から救われたことから、紀元前660(神武天皇元)年に、この地に武甕槌大神を祭神として祀ることになったと語り継がれている。奈良、平安の頃には国の守護神として信仰され、奉幣使も派遣された。古くからこの地が東国統治の重要拠点であったのは外洋と内陸や香取の海(かつての内海)の東西の結節点であり、内湾を挟んだ向かいの香取神宮とともに蝦夷に対する前線として北への睨みをきかせる一方、交通の要となっていたからだ。このため鹿島神宮は、本殿は北向きであるともいわれている。その後、武家が興隆する中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将のから、武神として崇敬されるようになった。全国約600社ある鹿島神社の総本社。
境内は、鹿島神宮駅側の門前町を通り、大鳥居*をくぐると、楼門*があり、その先の右手に社殿*(拝殿、本殿等)、ご神木、左手に仮殿*が建つ。社殿を過ぎ、奥参道を進めば、両側は鬱蒼とした社叢が続き、途中、さざれ石や神鹿(しんろく)の鹿園*があり、さらに歩を進めれば、奥宮*に達する。奥宮の周囲は樹叢はさらに繁茂し、深閑さが増す。奥宮の裏手の林間の道を辿れば、要石*に達し、北側に坂を下ると、1日40万リットル以上の湧水がある御手洗池に出る。ここには茶店もあり、一息つくことが出来る。そのほか、境内には末社や芭蕉や一茶の句碑*などが点在している。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われるが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には御船祭も斎行される。このほか80以上もある神宮の祭りの中で、特に有名なのは、3月9日に催される、古代信仰の「鹿島立ち」*を淵源とした祭頭祭である。
境内は、鹿島神宮駅側の門前町を通り、大鳥居*をくぐると、楼門*があり、その先の右手に社殿*(拝殿、本殿等)、ご神木、左手に仮殿*が建つ。社殿を過ぎ、奥参道を進めば、両側は鬱蒼とした社叢が続き、途中、さざれ石や神鹿(しんろく)の鹿園*があり、さらに歩を進めれば、奥宮*に達する。奥宮の周囲は樹叢はさらに繁茂し、深閑さが増す。奥宮の裏手の林間の道を辿れば、要石*に達し、北側に坂を下ると、1日40万リットル以上の湧水がある御手洗池に出る。ここには茶店もあり、一息つくことが出来る。そのほか、境内には末社や芭蕉や一茶の句碑*などが点在している。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われるが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には御船祭も斎行される。このほか80以上もある神宮の祭りの中で、特に有名なのは、3月9日に催される、古代信仰の「鹿島立ち」*を淵源とした祭頭祭である。
みどころ
楼門、社殿、仮殿、奥宮など重要文化財の建造物はいずれも風格があり、楼門、本殿(社殿)では彩色が映え、仮殿、奥宮では桧皮葺の簡素な造りと対照的で、興味深い。広い境内には、末社、史跡、句碑などが点在し、それを探して巡るのも面白い。
境内の樹叢は約600種の多様な植生がそのまま生かされており、まさに神宿る森といった雰囲気があり、気持ちを落ち着かせてくれるとともに、森林浴をたっぷりと楽しむことができる。
御手洗池の湧き水と木陰には、神秘性を感じ、清涼感があふれる。(志賀 典人)
境内の樹叢は約600種の多様な植生がそのまま生かされており、まさに神宿る森といった雰囲気があり、気持ちを落ち着かせてくれるとともに、森林浴をたっぷりと楽しむことができる。
御手洗池の湧き水と木陰には、神秘性を感じ、清涼感があふれる。(志賀 典人)
補足情報
*樹叢:スギ・シイ・タブ・モミの巨樹が生い茂り、樹種は600種以上にも及ぶ。生育南限と北限の植物が混淆しているのも特色。
*大鳥居:かつては石の鳥居であったが、2011(平成23)年の大震災で倒壊。2014(平成26)年に木製の鳥居で再建された。なお、大鳥居の西、北浦に面した大船津には水上に西の一之鳥居が建つ。江戸時代に歌川廣重の『六十余州名所図會』にも描かれていた。現在の鳥居は2013(平成25)年竣工で、高さ18.5mの金属製。また、東の一之鳥居は鹿島灘に面した明石海岸にある。
*楼門:左右の回廊とともに1634(寛永11)年水戸藩初代藩主の徳川頼房が建立した。高さ約13m、朱が鮮やかである。
*社殿:1619(元和5)年江戸幕府2代将軍徳川秀忠の造営で、本殿は三間社流造、桧皮葺(ひわだぶき)。入母屋造の拝殿とのあいだは幣殿・石ノ間でつなぎ、蟇股などに華やかな色彩を施している。本殿の後方には神木の老杉がそびえている。なお、社殿前にある宝物館は、2019(平成31・令和元)年現在、再整備のため休館中。武甕槌大神が使った「韴霊剣」と伝わる全長271cmにも及ぶ直刀(国宝)、源頼朝寄進の梅竹蒔絵鞍(国指定重要文化財)などが収蔵されている。
*仮殿:1617(元和4)年、徳川秀忠が社殿造営のために建てたもの。仮殿をまず造営し、祭神を遷座させたうえで旧本殿を奥宮まで曳き、その跡地に新社殿を造営した。
*鹿園:鹿は武甕槌大神の使いといわれ、鹿島神宮では神鹿として保護されてきたが、明治期に絶滅した。それを1957(昭和32)年、春日大社などから移され、現在は園内に約30頭の鹿が遊ぶ。
*奥宮:裏参道の奥にあり、1606(慶長11)年徳川家康が本宮として造営した。三間社流造、桧皮葺の簡素な建物で、千木堅男木(ちぎかつおぎ)も置かない。20年ごとの造替では現本殿と奥宮の地を交互に社地としたとの説もある。
*要石(かなめいし):奥宮のさらに奥、瑞垣(みずがき)の中にわずかに丸い岩頭が見える。石は地中に限りない深さに達し、地底で地震を起こす大鯰(おおなまず)の頭を押さえているという。
*句碑:1687(貞享4)年芭蕉も神宮を訪れ、『鹿島紀行』を著し、俳号桃青として「此松の実ばへせし代や神の秋」を詠み、一茶も1817(文化14)年に鹿島神宮を訪れ「大地震(おおなえ)にびくともせぬや松の花」を残している。なお、要石の近くの芭蕉の句碑「枯枝に鴉とまりけり穐の暮」については、鹿島での句かは不詳。
*鹿島立ち:旅立ちや出発を意味する。九州の防備にむかう防人が参拝した故事によるもの。
*大鳥居:かつては石の鳥居であったが、2011(平成23)年の大震災で倒壊。2014(平成26)年に木製の鳥居で再建された。なお、大鳥居の西、北浦に面した大船津には水上に西の一之鳥居が建つ。江戸時代に歌川廣重の『六十余州名所図會』にも描かれていた。現在の鳥居は2013(平成25)年竣工で、高さ18.5mの金属製。また、東の一之鳥居は鹿島灘に面した明石海岸にある。
*楼門:左右の回廊とともに1634(寛永11)年水戸藩初代藩主の徳川頼房が建立した。高さ約13m、朱が鮮やかである。
*社殿:1619(元和5)年江戸幕府2代将軍徳川秀忠の造営で、本殿は三間社流造、桧皮葺(ひわだぶき)。入母屋造の拝殿とのあいだは幣殿・石ノ間でつなぎ、蟇股などに華やかな色彩を施している。本殿の後方には神木の老杉がそびえている。なお、社殿前にある宝物館は、2019(平成31・令和元)年現在、再整備のため休館中。武甕槌大神が使った「韴霊剣」と伝わる全長271cmにも及ぶ直刀(国宝)、源頼朝寄進の梅竹蒔絵鞍(国指定重要文化財)などが収蔵されている。
*仮殿:1617(元和4)年、徳川秀忠が社殿造営のために建てたもの。仮殿をまず造営し、祭神を遷座させたうえで旧本殿を奥宮まで曳き、その跡地に新社殿を造営した。
*鹿園:鹿は武甕槌大神の使いといわれ、鹿島神宮では神鹿として保護されてきたが、明治期に絶滅した。それを1957(昭和32)年、春日大社などから移され、現在は園内に約30頭の鹿が遊ぶ。
*奥宮:裏参道の奥にあり、1606(慶長11)年徳川家康が本宮として造営した。三間社流造、桧皮葺の簡素な建物で、千木堅男木(ちぎかつおぎ)も置かない。20年ごとの造替では現本殿と奥宮の地を交互に社地としたとの説もある。
*要石(かなめいし):奥宮のさらに奥、瑞垣(みずがき)の中にわずかに丸い岩頭が見える。石は地中に限りない深さに達し、地底で地震を起こす大鯰(おおなまず)の頭を押さえているという。
*句碑:1687(貞享4)年芭蕉も神宮を訪れ、『鹿島紀行』を著し、俳号桃青として「此松の実ばへせし代や神の秋」を詠み、一茶も1817(文化14)年に鹿島神宮を訪れ「大地震(おおなえ)にびくともせぬや松の花」を残している。なお、要石の近くの芭蕉の句碑「枯枝に鴉とまりけり穐の暮」については、鹿島での句かは不詳。
*鹿島立ち:旅立ちや出発を意味する。九州の防備にむかう防人が参拝した故事によるもの。
関連リンク | 鹿島神宮(WEBサイト) |
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関連図書 | 『常陸国風土記』、『鹿島紀行』教養古典文庫 Kindle版, |
参考文献 |
鹿島神宮(WEBサイト) 鹿島神宮境内案内板・句碑 観光いばらき(一般社団法人茨城県観光物産協会)(WEBサイト) 茨城県教育委員会(WEBサイト) 國學院大學メディア(國學院大學)(WEBサイト) |
2020年12月現在
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