赤神神社五社堂あかがみじんじゃごしゃどう

JR男鹿線男鹿駅から男鹿半島の西海岸を西へ約13km、本山(標高715m)の中腹、標高約180mの高台に五社堂は建つ。参道*1は船川港門前にある赤神神社遥拝殿の横にあり、長楽寺の脇を通り、999段とされる石段が参道となっている。 
 五社堂は、向かって右から三の宮堂、客人権現堂、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂*2の5棟が並列しており、いずれも正面三間、側面二間、一重、正面入母屋造、背面切妻造、妻入で向拝は一間、唐破風造りである。各棟とも向拝などに彫刻が施されている。一段下の更地は、「長床」*3跡といわれている。現在の五社堂の社殿は1709(宝永6)年に秋田藩第4代藩主佐竹義格によって寄進、造営され(近年、修復済)、その後も佐竹氏によって厚い保護を受けてきた。
 同社の創建は不詳だが、本山は、東に連なる真山(かつては新山とも称されている)とともに、山岳信仰の対象となっており、合わせて涌出山、あるいは赤神山と称されていた。貞観年中(859~877年)に至り、円仁によって熊野の本宮、新宮にならい、南を本山、北を真(新)山と分けられたといわれている。本山は、赤神(赤神権現)などを祀り、天台宗の日積寺永禅院(現在は廃寺)を別当とする赤神神社五社堂となり、崇敬を集めた。赤神は漢の武帝を祀ったものとされ、この地方の武帝渡来伝説や鬼伝説*4とつながっている。真山の方は、平安時代以降、修験信仰の広がりとともに天台宗僧徒によって光飯寺(こうぼうじ・現在は廃寺)が建立され、比叡山延暦寺守護神赤山明神(赤神)と習合された。明治期の神仏分離により現在は真山神社となっている。本山及び真山の頂上には現在もそれぞれの奥宮が鎮座している。
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みどころ

999段といわれる石段はところによっては崩れている所もあり、しっかりとした足回りが必要。急な登りがひとしきり続くが、林に囲まれた平坦地まで登り詰めると、参道左手に「御手洗池」、さらに進むと「姿見の井」という井戸があり、左右には往時の堂宇跡が続く。石段にまた突き当たるが、仰ぎ見るとブナやナラの木を背に、右手前に逆さ杉を控えさせて、風格ある5棟の堂が建ち並び、壮観。石段を登ったところが、長床跡で、かつては、そこに修験者たちが集っていたに違いなく、緑に囲まれた静寂の中修行にまい進していたであろうと想像をかき立てられる。さらに一段、石段を登れば、各堂を間近に参拝でき、また、各堂の造りやそれぞれ、微妙に異なる彫り物、装飾を観察することができる。
 なお、五社堂から本山、真山の山並みを縦走して、真山神社、なまはげ館までの11kmほどの修験者が通った「お山かけ」と称するトレッキングコースもある。
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補足情報

*1 参道:門前漁港を入道崎に向かった、長楽寺の裏手の高台に駐車場があり、参道の石段に出ることができる。また、本山への登山口にもなっている。 
*2 三の宮堂、客人権現堂、赤神権現(中)堂、八王子堂、十禅師堂:江戸後期の紀行家菅江真澄は「牡鹿の嶋風」でこの五社堂のことを「むかふ弓手(ゆんで・左手)の始に十善子、その次は赤木明神、馬手(めて・右手)のはじめは八王子、次に二の宮」、中に漢武帝を阿伽神と祭(いわ)ひ、奥に薬師佛をひめたり。長堂(長床)といふあり。」として、現在の配列とは異なった説明となっているが、中央の赤神権現堂については漢武帝を祀り、薬師如来が本地仏だとして記している。なお、客人権現堂には江戸前期の仏師円空が彫像した「木造十一面観音菩薩立像」が奉納されている(通常は未公開、一般公開は年1回)。
*3 長床:本殿前方に建つ細長い建物。拝殿と区別されていない場合もあるが、長床は単なる拝殿ではなく修験者,行者らに一時の宿泊・参籠の場を提供する場所であることが多い。熊野系の神社に多くみられ山形県喜多方市の新宮熊野神社に現存している。
*4 武帝渡来伝説や鬼伝説:前漢の武帝が不老長寿の薬を求めて、男鹿半島まで来た際、5匹のコーモリを従えてきた。そのコーモリは鬼に変身し武帝のために働いたが、正月15日だけ休みをもらい、村に出て乱暴を働いた。それに困った村人は武帝に対し、娘を毎年差し出すので、鬼たちに一夜で五社堂まで1,000段の石段を造ること築くことを命じ、これが出来なかったら村に降りてこないようにしてほしいと嘆願した。一夜では築けないと村人たちは思っていたが、鬼たちは999段積み上げてしまったので、あと1段で完成というときに村人は機転をきかして、鶏の鳴き声のまねをしたために鬼たちはあわてて山へ戻ったという伝説で、その5匹の鬼を祀ったのが五社堂だという。また、その鬼が「ナマハゲ」の起こりだとも言い伝えられている。
しかし、この伝説については、柳田国男は別当寺の転宗(14世紀末)などにより教義等の解釈に変更を加えた際に生み出した説話で、地元民にとっては余り意味をなさないとし、「たとえば漢の武帝だの蘇武だのという物々しい縁起は、上古以来のナマハギの信仰を、大切に持ち伝えた素朴なる村人に向かっては、あまりにも縁の乏しい外国文学の応用」がなされたと評している。柳田国男は「なまはぎ」については農作業が始まる前の「来訪神による予祝行事」と位置付けている。

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