益田市は県西部にあり、東を広島県の北広島町、安芸太田町、廿日市市、南は吉賀町、津和野町、西は山口県萩市に接し、北東方面は浜田市、北西方面は日本海に面する。
海岸沿いをJR山陰本線が通じ、益田駅から内陸部にJR山口線が通じる。国道9号、191号、488号が通じ、萩・石見空港からは大阪、東京便がある。
南部は中国山地に至り、恐羅漢山、安蔵寺山などの山々が連なる。中国山地に源を発する一級河川高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、下流部に益田平野が三角州状に広がる。中心市街地はこの三角州上にある。河川は、高津川の支流である匹見川や沖田川など流れる。総面積の大半を林野が占め、特に美都地域、匹見地域では96%を山林が占め、急峻な山々に囲まれている。市域の北側は日本海に面し、海岸は三里ヶ浜と呼ばれる長い砂浜と磯海岸による変化に富んだ美しい海岸線となっており、白砂青松の石見潟を形成している。中国山地の稜線一帯は西中国山地国定公園に含まれ、臨海部の蟠竜湖及びその周辺は県立自然公園に指定されている。
1952年(昭和27)益田町と7村が合併して市制施行。1955年(昭和30)5村を編入。2004年(平成16)2町を編入し、現在の市域となる。歴史は古く、旧石器・縄文・弥生・古墳などの遺跡や埋蔵文化財が多い。中世、石見地方の豪族益田氏が七尾城を築いて本拠とし、関ヶ原の戦いで益田氏が転封するまではその城下町として栄えた。近世は、東部は浜田藩、西部は津和野藩に属し、高津川左岸の河口にある高津は津和野藩の外港として栄えた。津和野藩では石見和紙を製造、浜田藩の益田は益田川流域の木炭、木材の集散地で市場町として発達。しょうゆ、ござ、繭、桐下駄、扇子の骨などの生産、取引も行われた。昭和初期には、交通の便、豊富な用水、原料の繭などに着目して、郡是製糸(現、グンゼ)、出雲製織(現、大和紡績)などの繊維工場が立地。美都地区の都茂鉱山は、古代以来、金、銀、銅などを産出し栄えたが、1980年代後半に閉山。
海岸砂丘ではナツミカン・ブドウ栽培、沿岸部では沿岸・養殖漁業が行われる。山間部ではパルプ用材や木工加工品を生産し、造林や森林の整備・管理の振興が図られている。ユズとその加工品が特産。ワサビ栽培は全国有数の生産量を誇り、ほかにシイタケ、イチゴ、メロン、トマト、ホウレンソウなどのハウス栽培、肉用牛の飼養などが行われる。空港を生かした石見臨空ファクトリーパークが建設されている。
スクモ塚古墳と益田氏城館跡は国指定史跡、伝雪舟築造の万福寺・医光寺の両庭園(ともに国指定史跡・名勝)、国指定重要文化財には万福寺本堂、染羽天石勝(神社本殿、雪舟筆『紙本著色益田兼堯像』(益田市立雪舟の郷記念館)、狩野松栄筆『絹本著色益田元祥像』(島根県立石見美術館)などがある。「唐音の蛇岩」は天然記念物。「益田の糸あやつり人形」は国の選択無形民俗文化財。南東部一帯は西中国山地国定公園の一部で匹見峡などの景勝地がある。

観光資源一覧

裏匹見峡の写真

写真提供:益田市観光協会

裏匹見峡 (島根県 益田市 )

裏匹見峡は、JR山陰本線・山口線の益田駅から南東へ約25km、広島県廿日市市との境界近くにある峡谷。  この一帯では約9000万年前の中生代白亜紀に非常に大規模な火山活動が起き、流紋岩~デイサイト質の火砕流が噴出し、主に凝灰岩や溶結凝灰岩からなる匹見層群を形成。匹見川および支流の広見川の浸食によって形成された匹見峡は、西中国...

萬福寺の写真

写真提供:西村愛

萬福寺 (島根県 益田市 )

JR益田駅の東約2km、益田川の北畔にある。もとは現在の中須町(なかずちょう)にあって平安時代に建立され、安福寺と号した七堂伽藍をかねそなえた天台宗の大寺であった。1026(万寿3)年5月に石見地方を襲った大津波で、堂塔がことごとく流失した。その後、1319(元応1)年、遊行4代呑海上人(どんかいしょうにん)が下向のおり、時宗の道場...

医光寺の写真

写真提供:益田市観光協会

医光寺 (島根県 益田市 )

JR益田駅の東約2.5kmに位置する臨済宗東福寺派の寺院だが、もとは崇観寺の塔頭であった。崇観寺の創建は1363(貞治2)年で、室町幕府の保護を受け、また益田氏*の菩提寺として隆盛をきわめた。しかし、戦国の争乱に巻き込まれ、衰退していくことになる。  雪舟*は崇観寺の第5代住職で、文明年間(1469~1486年)に、塔頭のひとつに池泉観...