医光寺いこうじ

JR益田駅の東約2.5kmに位置する臨済宗東福寺派の寺院だが、もとは崇観寺の塔頭であった。崇観寺の創建は1363(貞治2)年で、室町幕府の保護を受け、また益田氏*の菩提寺として隆盛をきわめた。しかし、戦国の争乱に巻き込まれ、衰退していくことになる。
 雪舟*は崇観寺の第5代住職で、文明年間(1469~1486年)に、塔頭のひとつに池泉観賞半回遊式で鶴池に亀島を配置した蓬莱式(ほうらいしき)の庭園を残した。それが後の医光寺で、衰退した崇観寺に代わる寺院として益田家17代宗兼により再興された。
 総門は、益田氏の居城七尾城の大手門が移築されたものと言われている。また、本堂と総門の間に立つ中門は江戸時代後期に建築されたもので、彫刻などの華やかな装飾が随所に見られる。この他、本堂・開山堂・鐘楼などを備え、小規模ながらもまとまったたたずまいである。
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みどころ

七尾城の大手門を移建したと伝える竜宮造の総門は、太い2本の柱に2段の瓦葺の屋根を乗せ、大扉が付けられている。豪快な感じで安定感がある。
 雪舟庭園は、1729(享保14)年に改修されているが、雪舟の作で池泉観賞式。書院の前から本堂にかけて鶴池が広がり、池中に亀島が浮かぶ。背後の斜面には角張ったツツジの刈込みが階段上に並び、枝垂(しだれ)桜、楓の古木が植えられている。春にはしだれ桜やつつじ、夏は緑、秋は赤く染まった楓、冬は真っ白な雪と、四季により異なった彩が飾る。直角的な線の強い雪舟の筆法そのままの力強さを感じる庭園である。
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補足情報

*益田氏:石見の豪族御神本(みかもと)氏の一族と伝える。室町時代に周防(すおう)の大内氏に属し、大内氏滅亡後は毛利元就に帰属。関ヶ原の戦後も毛利氏に従い、削封による毛利氏の財政危機を救済、萩藩(長州藩)の基礎づくりに成功し、永代国家老として1万2000石を領した。益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る。
*雪舟:1420(応永27)~1506(永正3)年。室町後期の画僧。備中の人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。京都の相国寺に入り、画技を周文に学んだ。山口に画房、雲谷庵(うんこくあん)を開設。渡明を挟んで宋元画を広く学び、のち大分に天開図画楼(てんかいとがろう)を開設。自然に対する深い観照のもとに個性豊かな水墨山水画様式を完成し、後世に多大な影響を与えた。作「天橋立図」「山水長巻」など。