萬福寺まんぷくじ

JR益田駅の東約2km、益田川の北畔にある。もとは現在の中須町(なかずちょう)にあって平安時代に建立され、安福寺と号した七堂伽藍をかねそなえた天台宗の大寺であった。1026(万寿3)年5月に石見地方を襲った大津波で、堂塔がことごとく流失した。その後、1319(元応1)年、遊行4代呑海上人(どんかいしょうにん)が下向のおり、時宗の道場に転じた。1374(応安7)年になって益田を治めていた領主・益田兼見(ますだかねみ)*が、時の住職師阿月心(しあげっしん)を助けて、寺塔を現在地に再建し、萬福寺と改めて菩提寺とした。
 本堂は1374(北朝:応安7、南朝:文中3)年に建立され、1934(昭和9)年に解体修復された。正面側面とも7間、屋根は単層、寄棟造、桟瓦葺で、四方に回縁をめぐらした鎌倉時代の建築様式を伝える雄大な建物である。
 1478(文明10)年、益田城主15代益田兼尭(ますだかねたか)に雪舟*が招かれ、翌1479(文明11)年、堂後に石庭が造築された。
 本堂は国の重要文化財に、雪舟庭園は国の史跡及び名勝に指定されている。他にも「二河白道図」、「華南三彩壺」など、中世益田文化を代表する文化財が集まる。
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みどころ

現在は境内に1374(北朝:応安7、南朝:文中3)年の本堂・庫裏が立つだけだが、その雰囲気は身の引きしまるほどの厳粛さがある。特に本堂の反り屋根の曲線は美しい。なお、本堂の柱には益田口戦争(幕長戦争石州口の戦い)の弾痕も残っている。
 庭園は、座敷に座って眺める池泉鑑賞式。心字池を手前にして築山が中腹に力強い石組を抱いて、裾をゆるやかに延ばして横たわる。明と暗を巧みに配した庭園構造となっている。庭園の左右の明暗や植栽とのバランスが美しく、石組みの表現が須弥山世界(仏教)を象徴した雪舟がつくったとされる石庭である。
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補足情報

*益田兼見(ますだかねみ):石見の豪族御神本(みかもと)氏の一族と伝える。室町時代に周防(すおう)の大内氏に属し、大内氏滅亡後は毛利元就に帰属。関ヶ原の戦後も毛利氏に従い、削封による毛利氏の財政危機を救済、萩藩(長州藩)の基礎づくりに成功し、永代国家老として1万2,000石を領した。益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田家文書』が残る。
*雪舟:1420(応永27)~1506(永正3)年。室町後期の画僧。備中の人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。京都の相国寺に入り、画技を周文に学んだ。山口に画房、雲谷庵(うんこくあん)を開設。渡明を挟んで宋元画を広く学び、のち大分に天開図画楼(てんかいとがろう)を開設。自然に対する深い観照のもとに個性豊かな水墨山水画様式を完成し、後世に多大な影響を与えた。作「天橋立図」「山水長巻」など。