水前寺成趣園
熊本市街地の南東、熊本市電水前寺公園から徒歩約4分にある。面積約73,000m2の回遊式の大名庭園で、夏目漱石*の「湧くからに流るるからに春の水」の句で知られる。
1632(寛永9)年、加藤家の改易により肥後に入国した細川家三代細川忠利*が熊本城南東の湧水地に水前寺を建立し、同地に数寄屋風の茶屋を建て「水前寺御茶屋」と呼ばれたのが始まり。三代藩主綱利の代に大規模な作庭がなされ、1671(寛文11)年に現在とほぼ同じ規模の庭園ができあがり、中国の詩人陶淵明の詩に由来して「成趣園」と命名された。
庭園中央部にある池には阿蘇の清らかな伏流水が湧き出し、池を中心に芝山がところどころに築かれている。水前寺富士と呼ばれる円錐形の築山は、この庭園のシンボルである。
1912(大正元)年、京都御所内にあった古今伝授の間*が、細川家にゆかりのあるこの地に復元された。古今伝授が行われた空間として現存する日本で唯一の建物である。池の北岸に鎮座する出水神社(いずみじんじゃ)*には細川家の歴代が祀られる。
1632(寛永9)年、加藤家の改易により肥後に入国した細川家三代細川忠利*が熊本城南東の湧水地に水前寺を建立し、同地に数寄屋風の茶屋を建て「水前寺御茶屋」と呼ばれたのが始まり。三代藩主綱利の代に大規模な作庭がなされ、1671(寛文11)年に現在とほぼ同じ規模の庭園ができあがり、中国の詩人陶淵明の詩に由来して「成趣園」と命名された。
庭園中央部にある池には阿蘇の清らかな伏流水が湧き出し、池を中心に芝山がところどころに築かれている。水前寺富士と呼ばれる円錐形の築山は、この庭園のシンボルである。
1912(大正元)年、京都御所内にあった古今伝授の間*が、細川家にゆかりのあるこの地に復元された。古今伝授が行われた空間として現存する日本で唯一の建物である。池の北岸に鎮座する出水神社(いずみじんじゃ)*には細川家の歴代が祀られる。

みどころ
正門から入ると、目の前に清々しい景色が広がる。阿蘇の伏流水を湛える大きな池は青空を映して輝き、その奥に芝山が並ぶ。青々としたマツは大きく枝を伸ばしている。
ここから園内を一周していくと、左手に出水神社がある。樹齢400年を超える五葉の松が見事な姿を見せ、長寿の水と呼ばれる阿蘇火山系の硬水が流れている。出水神社を左にして進むと梅のエリアがあり、その右手には細川忠利公と藤孝公*の銅像が建つ。銅像を左にして右方向へ進むと桜の広場があり、春の園内は満開の桜で大いに彩られる。桜の広場を抜けると左に能楽殿*が見える。ここでは毎年8月第1土曜日に薪能が奉納されるほか、ジャズや舞踊など幅広く利用されている。能楽殿の先は池と茅葺屋根の建物が趣ある景色を作り、この茅葺屋根の建物が古今伝授の間である。古今伝授の間から眺める成趣園の景色が最も美しいとされ、散策の締めくくりに抹茶とお菓子でひと休みしながら、しばらく佇むのもよい。
ここから園内を一周していくと、左手に出水神社がある。樹齢400年を超える五葉の松が見事な姿を見せ、長寿の水と呼ばれる阿蘇火山系の硬水が流れている。出水神社を左にして進むと梅のエリアがあり、その右手には細川忠利公と藤孝公*の銅像が建つ。銅像を左にして右方向へ進むと桜の広場があり、春の園内は満開の桜で大いに彩られる。桜の広場を抜けると左に能楽殿*が見える。ここでは毎年8月第1土曜日に薪能が奉納されるほか、ジャズや舞踊など幅広く利用されている。能楽殿の先は池と茅葺屋根の建物が趣ある景色を作り、この茅葺屋根の建物が古今伝授の間である。古今伝授の間から眺める成趣園の景色が最も美しいとされ、散策の締めくくりに抹茶とお菓子でひと休みしながら、しばらく佇むのもよい。

補足情報
*夏目漱石:1867-1916年。1896(明治29)年4月から4年3か月の間、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師を務める。熊本時代の漱石はまだ小説家ではなく俳人であった。漱石は水前寺成趣園をとても気に入っていた。
*細川忠利:1586ー1641年。1586(天正4)年、細川忠興の三男として生まれる。母は明智光秀の娘の玉(ガラシャ)。徳川秀忠の養女と結婚する。1632(寛永9)年、肥後細川家の初代熊本藩主として熊本城に入る。水前寺成趣園の創設者。
*古今伝授の間:戦国時代に細川幽斎が後陽成天皇の弟である八条宮(桂宮)智仁(としひと)親王へ古今和歌集の解釈を中心に奥義を伝授した建物。もともとは京都御所内に建てられた智仁親王の書院を兼ねた茶室で、京都の長岡天満宮境内に移され長岡茶屋と呼ばれていたが、1871(明治4)年に細川家に贈られ、解体・保存されていた。1912(大正元)年に現在地に移築・復元された。約400年前、桃山時代の数寄屋造りの建物。
*出水神社:1877(明治10)年の西南戦争で荒廃した熊本城下の復興を願い、1878(明治11)年に創建された。細川藤孝、忠興、忠利、重賢(しげかた)を主祭神とし、歴代藩主と二代忠興の妻ガラシャのあわせて十五柱を祀る。
*細川藤孝(幽斎):1534ー1610年。幼いころは母方の実家清原家で育てられる。清原家は清少納言などを輩出した学者の家で、学問的に大変恵まれた環境で育つ。肥後細川家初代として近世細川家の基礎を築き、信長、秀吉、家康に仕えた数少ない武人である一方、和歌や能など諸芸に通じた当代一の文化人でもあった。特に和歌については「古今伝授」の継承者となった。
*能楽殿:大名家の中でも細川家はとくに能楽を愛好していた。細川藤孝は太鼓の名手であったといわれる。1878(明治11)年、出水神社創建と同時に建立されたが、1965(昭和40)年に焼失し、現在の能楽殿は、旧八代城主松井家から1986(昭和61)年に移築・奉納されたもの。
*細川忠利:1586ー1641年。1586(天正4)年、細川忠興の三男として生まれる。母は明智光秀の娘の玉(ガラシャ)。徳川秀忠の養女と結婚する。1632(寛永9)年、肥後細川家の初代熊本藩主として熊本城に入る。水前寺成趣園の創設者。
*古今伝授の間:戦国時代に細川幽斎が後陽成天皇の弟である八条宮(桂宮)智仁(としひと)親王へ古今和歌集の解釈を中心に奥義を伝授した建物。もともとは京都御所内に建てられた智仁親王の書院を兼ねた茶室で、京都の長岡天満宮境内に移され長岡茶屋と呼ばれていたが、1871(明治4)年に細川家に贈られ、解体・保存されていた。1912(大正元)年に現在地に移築・復元された。約400年前、桃山時代の数寄屋造りの建物。
*出水神社:1877(明治10)年の西南戦争で荒廃した熊本城下の復興を願い、1878(明治11)年に創建された。細川藤孝、忠興、忠利、重賢(しげかた)を主祭神とし、歴代藩主と二代忠興の妻ガラシャのあわせて十五柱を祀る。
*細川藤孝(幽斎):1534ー1610年。幼いころは母方の実家清原家で育てられる。清原家は清少納言などを輩出した学者の家で、学問的に大変恵まれた環境で育つ。肥後細川家初代として近世細川家の基礎を築き、信長、秀吉、家康に仕えた数少ない武人である一方、和歌や能など諸芸に通じた当代一の文化人でもあった。特に和歌については「古今伝授」の継承者となった。
*能楽殿:大名家の中でも細川家はとくに能楽を愛好していた。細川藤孝は太鼓の名手であったといわれる。1878(明治11)年、出水神社創建と同時に建立されたが、1965(昭和40)年に焼失し、現在の能楽殿は、旧八代城主松井家から1986(昭和61)年に移築・奉納されたもの。
関連リンク | 水前寺成趣園(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
水前寺成趣園(WEBサイト) 「優美な大名庭園 水前寺成趣園」パンフレット 「熊本県の歴史散歩」山川出版社 熊本市環境局(WEBサイト) 「県重要文化財 古今伝授の間」資料 |
2024年11月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。