熊本城
熊本市の中心部、熊本市電熊本城・市役所前から徒歩10分にある。
城域は茶臼山*と呼ばれた丘陵地全体を占め、周囲5.3km、総面積は980,000m2におよぶ。往時は大小の天守閣をはじめ、櫓49、櫓門18、城門29を持ったとされ、武者返し*と呼ばれる独特な反りをもつ石垣がめぐらされた、実践を想定した巨大要塞、難攻不落の堅城として名を馳せた。今も天下の名城といわれる。
熊本城は、室町時代に菊池氏の一族出田秀信(いでたひでのぶ)が茶臼山東麓の千葉城と呼ばれる地区に城を築いたのにはじまる。その後、鹿子木親員(寂心)(かのこぎちかかず・じゃくしん)が千葉城に入るが、新たに茶臼山南西麓に隈本城*を築いたとされる。1588(天正16)年、加藤清正*が肥後北半国の領主としてこの隈本城に入り居城としたが、朝鮮出兵(1592・97年)から帰国後の1599(慶長4)年、茶臼山の現在の位置に新しい城の築城を始め、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの頃に大天守を完成させた。関ヶ原の戦いの軍功で肥後南半国の領土を与えられ、肥後一国の国守となった清正は、1607(慶長12)年にこの新しい城を完成させ、熊本城に改称した。清正の死後、その子忠広が熊本城主となったが、1632(寛永9)年に加藤家が改易され、豊前国から細川忠利*が移封されて以降、明治維新までのおよそ200年間は細川氏11代の居城となった。
1877(明治10)年、西南戦争開戦直前の火災で、築城から300年近く姿をとどめた天守や本丸御殿*などが焼失し、83年後の1960(昭和35)年、一人の市民の寄付とそれをきっかけに始まった多くの市民の募金を基に、鉄骨鉄筋コンクリートで天守閣が再建された。2016(平成28)年4月の熊本地震では、大天守の瓦の落下や小天守の石垣の崩落など、天守閣をはじめすべての建物が被害を受け、特に大きな被害を受けたのが石垣であった。現在も復旧工事が進められ広い範囲で立ち入りが規制されるが、2021(令和3)年6月に天守閣全体が完全復旧し内部の一般公開が始まるなど、復活に向けて着実に進んでいる。
サクラの名所としても知られ、開花時期には夜間公開が行われる。ソメイヨシノを中心にヤマザクラ、チハラザクラなど約550本の桜が鑑賞できる。
城域は茶臼山*と呼ばれた丘陵地全体を占め、周囲5.3km、総面積は980,000m2におよぶ。往時は大小の天守閣をはじめ、櫓49、櫓門18、城門29を持ったとされ、武者返し*と呼ばれる独特な反りをもつ石垣がめぐらされた、実践を想定した巨大要塞、難攻不落の堅城として名を馳せた。今も天下の名城といわれる。
熊本城は、室町時代に菊池氏の一族出田秀信(いでたひでのぶ)が茶臼山東麓の千葉城と呼ばれる地区に城を築いたのにはじまる。その後、鹿子木親員(寂心)(かのこぎちかかず・じゃくしん)が千葉城に入るが、新たに茶臼山南西麓に隈本城*を築いたとされる。1588(天正16)年、加藤清正*が肥後北半国の領主としてこの隈本城に入り居城としたが、朝鮮出兵(1592・97年)から帰国後の1599(慶長4)年、茶臼山の現在の位置に新しい城の築城を始め、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの頃に大天守を完成させた。関ヶ原の戦いの軍功で肥後南半国の領土を与えられ、肥後一国の国守となった清正は、1607(慶長12)年にこの新しい城を完成させ、熊本城に改称した。清正の死後、その子忠広が熊本城主となったが、1632(寛永9)年に加藤家が改易され、豊前国から細川忠利*が移封されて以降、明治維新までのおよそ200年間は細川氏11代の居城となった。
1877(明治10)年、西南戦争開戦直前の火災で、築城から300年近く姿をとどめた天守や本丸御殿*などが焼失し、83年後の1960(昭和35)年、一人の市民の寄付とそれをきっかけに始まった多くの市民の募金を基に、鉄骨鉄筋コンクリートで天守閣が再建された。2016(平成28)年4月の熊本地震では、大天守の瓦の落下や小天守の石垣の崩落など、天守閣をはじめすべての建物が被害を受け、特に大きな被害を受けたのが石垣であった。現在も復旧工事が進められ広い範囲で立ち入りが規制されるが、2021(令和3)年6月に天守閣全体が完全復旧し内部の一般公開が始まるなど、復活に向けて着実に進んでいる。
サクラの名所としても知られ、開花時期には夜間公開が行われる。ソメイヨシノを中心にヤマザクラ、チハラザクラなど約550本の桜が鑑賞できる。
みどころ
西南戦争では薩摩の大軍を迎えて50日あまりの籠城に耐え、難攻不落の堅城として真価を発揮した熊本城。漆黒の城は美しく、特別見学ルート*、天守閣前広場、二の丸広場、加藤神社*から見るとその姿は際立つ。特別見学ルートでは日の光に照り映える大天守の南面、天守閣前広場では大小並び建つ天守閣の東面と南西側から見上げる立ちはだかるような天守閣、二の丸広場と加藤神社では夕陽に照らされ黄金色に輝く天守閣が見られる。熊本城全体を見渡すには、熊本市役所14階にある無料展望ロビーへ行くとよい。天守閣はもちろん、本丸御殿、城の東側に並ぶ櫓*、長塀*などが見え、城内の位置関係を理解するのに最適である。
熊本城を見学する際に桜の馬場城彩苑でガイドツアーに申し込むと、城彩苑から特別見学ルートを通って天守閣前広場まで、約45分間ボランティアガイドが案内してくれる。熊本城の歴史や二様の石垣*など城内の説明に加えて、復旧の最新状況も教えてもらえる。天守閣内部は2021(令和3)年6月の天守閣完全復旧に伴いリニューアルされ、加藤時代、細川時代、近代、現代と各フロアを時代別に分け、パネルや模型、シアター映像で詳しく紹介している。6階の展望フロアには360度の景色が広がり、晴れた日は東に阿蘇中岳から上がる噴煙が望める。解体保存工事のため素屋根に覆われた宇土櫓*は、目を凝らすと櫓や工事の様子がうっすらと見える。
日没後の熊本城は、様々な啓蒙活動に合わせて色を変えてライトアップされる。光を纏って夜空に浮かび上がる幻想的な熊本城にも魅了される。
熊本城を見学する際に桜の馬場城彩苑でガイドツアーに申し込むと、城彩苑から特別見学ルートを通って天守閣前広場まで、約45分間ボランティアガイドが案内してくれる。熊本城の歴史や二様の石垣*など城内の説明に加えて、復旧の最新状況も教えてもらえる。天守閣内部は2021(令和3)年6月の天守閣完全復旧に伴いリニューアルされ、加藤時代、細川時代、近代、現代と各フロアを時代別に分け、パネルや模型、シアター映像で詳しく紹介している。6階の展望フロアには360度の景色が広がり、晴れた日は東に阿蘇中岳から上がる噴煙が望める。解体保存工事のため素屋根に覆われた宇土櫓*は、目を凝らすと櫓や工事の様子がうっすらと見える。
日没後の熊本城は、様々な啓蒙活動に合わせて色を変えてライトアップされる。光を纏って夜空に浮かび上がる幻想的な熊本城にも魅了される。
補足情報
*茶臼山:茶臼山は東から南に坪井川、外側に白川、西に井芹川が流れる要塞の地であった。
*武者返し:熊本城の石垣の通称。下はゆるやかで簡単に登れるように見えるが、上に向かうほど反り返りが激しくなり、武士はもちろん忍者でさえも登れないことから、こう呼ばれる。
*隈本城:この城を現在の熊本城と区別して古城と呼ぶ。
*加藤清正:1562ー1611年。尾張出身。豊臣秀吉の家臣として頭角を現し、27歳で肥後北半国の領主となる。熊本城の築城や当時大きく北へ蛇行していた白川を直線化し、白川旧流路の大部分を埋め立てて城下を拡大するなど、築城や治水の名手ともされる。また、南蛮貿易に取り組むなど功績は大きく、今でも清正公(せいしょこ)さんと親しみを持って呼ばれる。
*細川忠利:1586ー1641年。当時豊前小倉藩主であったが、加藤家が改易された後に熊本藩主となった。細川家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた大名家。忠利の母親は明智光秀の娘、細川ガラシャ。
*本丸御殿:2008(平成20)年、熊本城築城400年を記念して復元された。本丸御殿は国内でも珍しい地下通路(闇り通路)を有し、最も格式が高く煌びやかな昭君之間(しょうくんのま)がある。熊本地震により損壊し、現在内部非公開。
*特別見学ルート:2020(令和2)年6月に公開された高さ約6m、長さ約350mの空中回廊。復旧工事そのものを見せるという新しい視点で作られ、復旧が進む熊本城を間近に見ることができる。
*加藤神社:熊本城内の北側に鎮座する加藤清正公を祀る神社。
*城の東側に並ぶ櫓:田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓、東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓。いずれも国指定重要文化財。東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門は熊本地震の被害を受けたため修復中である。
*長塀:坪井川に沿って建てられた全長242mの塀。西南戦争のころ一時撤去されたが、その後復旧された。国指定重要文化財。
*二様の石垣:傾斜のゆるい築城初期の石垣に、傾斜の急な新しい石垣が築き足されている。
*宇土櫓:3層5階地下1階建てで、他城郭の天守に匹敵する大きさ。国指定重要文化財。
*武者返し:熊本城の石垣の通称。下はゆるやかで簡単に登れるように見えるが、上に向かうほど反り返りが激しくなり、武士はもちろん忍者でさえも登れないことから、こう呼ばれる。
*隈本城:この城を現在の熊本城と区別して古城と呼ぶ。
*加藤清正:1562ー1611年。尾張出身。豊臣秀吉の家臣として頭角を現し、27歳で肥後北半国の領主となる。熊本城の築城や当時大きく北へ蛇行していた白川を直線化し、白川旧流路の大部分を埋め立てて城下を拡大するなど、築城や治水の名手ともされる。また、南蛮貿易に取り組むなど功績は大きく、今でも清正公(せいしょこ)さんと親しみを持って呼ばれる。
*細川忠利:1586ー1641年。当時豊前小倉藩主であったが、加藤家が改易された後に熊本藩主となった。細川家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた大名家。忠利の母親は明智光秀の娘、細川ガラシャ。
*本丸御殿:2008(平成20)年、熊本城築城400年を記念して復元された。本丸御殿は国内でも珍しい地下通路(闇り通路)を有し、最も格式が高く煌びやかな昭君之間(しょうくんのま)がある。熊本地震により損壊し、現在内部非公開。
*特別見学ルート:2020(令和2)年6月に公開された高さ約6m、長さ約350mの空中回廊。復旧工事そのものを見せるという新しい視点で作られ、復旧が進む熊本城を間近に見ることができる。
*加藤神社:熊本城内の北側に鎮座する加藤清正公を祀る神社。
*城の東側に並ぶ櫓:田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓、東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓。いずれも国指定重要文化財。東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門は熊本地震の被害を受けたため修復中である。
*長塀:坪井川に沿って建てられた全長242mの塀。西南戦争のころ一時撤去されたが、その後復旧された。国指定重要文化財。
*二様の石垣:傾斜のゆるい築城初期の石垣に、傾斜の急な新しい石垣が築き足されている。
*宇土櫓:3層5階地下1階建てで、他城郭の天守に匹敵する大きさ。国指定重要文化財。
関連リンク | 熊本城総合事務所(WEBサイト) |
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参考文献 |
熊本城総合事務所(WEBサイト) 「熊本市観光ガイド くま本」 熊本市観光ガイド(WEBサイト) 熊本県公式観光サイト もっと、もーっと!くまもっと(WEBサイト) 「熊本県の歴史散歩」山川出版社 |
2024年11月現在
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