日本二十六聖人殉教地
JR九州新幹線・長崎本線長崎駅かもめ口(東口)前、NHK長崎放送局の裏手にある小高い丘が西坂公園となっており、その園内に日本二十六聖人記念碑と同記念館が建つ。また、隣接して聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)がある。
日本二十六聖人殉教地は、1597(慶長元)年この地で26人のキリスト教徒*が磔刑に処され殉教*した聖地であり、2012年に日本カトリック司教協議会制定の唯一の公式巡礼所になった。この26人は1627年と1629年に教皇ウルバノ8世により福者に、さらに1862年に教皇ピオ9世により聖人に列せられ、列聖百周年にあたる1962(昭和37)年には、イエズス会によって同地に二十六聖人の等身大のブロンズ像を嵌め込んだ記念碑と、殉教した人々の遺志と日本のキリシタンの歴史を紹介する記念館が建設された。
日本二十六聖人記念碑は彫刻家でキリスト教徒でもある舟越保武によって制作され、二十六聖人のブロンズ像を、花崗岩の台座・壁面に一列に並列させ、設置している。裏面は「長崎への道」と題した作品で、京都から長崎までの二十六聖人の旅を表現している。
記念碑の裏手にある日本二十六聖人記念館は日本に初めてアントニオ・ガウディ(スペインの建築家)を紹介した今井兼次による設計で、展示室には、日本でのキリスト教布教、迫害、潜伏、信仰復活までの歴史が紹介されている(記念館は入館有料)。
隣接して建つ聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)の名は二十六聖人のひとり、メキシコ人の最初の殉教者に当たる聖フィリッポ・デ・ヘススの名前が由来となっている。記念館と同じく1962(昭和37)年に今井兼次による設計で建設され、外観としては陶片モザイクがはめこまれた2本の塔が際立つ。二十六聖人のうちイエズス会修道士3人の聖遺骨が納められている。聖フィリッポ教会は拝観無料。
日本二十六聖人殉教地は、1597(慶長元)年この地で26人のキリスト教徒*が磔刑に処され殉教*した聖地であり、2012年に日本カトリック司教協議会制定の唯一の公式巡礼所になった。この26人は1627年と1629年に教皇ウルバノ8世により福者に、さらに1862年に教皇ピオ9世により聖人に列せられ、列聖百周年にあたる1962(昭和37)年には、イエズス会によって同地に二十六聖人の等身大のブロンズ像を嵌め込んだ記念碑と、殉教した人々の遺志と日本のキリシタンの歴史を紹介する記念館が建設された。
日本二十六聖人記念碑は彫刻家でキリスト教徒でもある舟越保武によって制作され、二十六聖人のブロンズ像を、花崗岩の台座・壁面に一列に並列させ、設置している。裏面は「長崎への道」と題した作品で、京都から長崎までの二十六聖人の旅を表現している。
記念碑の裏手にある日本二十六聖人記念館は日本に初めてアントニオ・ガウディ(スペインの建築家)を紹介した今井兼次による設計で、展示室には、日本でのキリスト教布教、迫害、潜伏、信仰復活までの歴史が紹介されている(記念館は入館有料)。
隣接して建つ聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)の名は二十六聖人のひとり、メキシコ人の最初の殉教者に当たる聖フィリッポ・デ・ヘススの名前が由来となっている。記念館と同じく1962(昭和37)年に今井兼次による設計で建設され、外観としては陶片モザイクがはめこまれた2本の塔が際立つ。二十六聖人のうちイエズス会修道士3人の聖遺骨が納められている。聖フィリッポ教会は拝観無料。
みどころ
JR長崎駅からNHK長崎放送局の脇の坂を巻くように登っていくと、左手の石垣の上に西坂公園があり、右手には陶片がモザイクのように散りばめたガウディ風の2本の尖塔を有する聖フィリッポ教会が建っている。まず、公園内の一段高いところに、壁のように横長の記念碑には26人の等身大のブロンズ像が並び、なかには明らかに背丈も低く、12、13歳の少年も含まれているのがわかる。どの聖人像も昇天の様子を描いているのだろうか、足が垂れ下がっているのも印象的だ。また、記念碑の裏側に回れると、京都からこの地へ連行された苦難の道が描かれたレリーフがはめ込まれている。出発地の「きょうと」の文字の下には26個の「ぶどうの実」が刻み込まれている。「ぶどう」は聖書では神の国の象徴だとされ、日本最初の聖人の殉教者として二十六聖人をぶどうの最初に稔った実を神に捧げるという意味になぞられたという。
記念館では1階ゾーンでは「26聖人の旅」「キリスト教伝来」「受容・発展・交流」「迫害・殉教」などの順に日本おけるキリスト教伝来の歴史などの資料展示がされ、2階ゾーンで世界のキリスト教の動向と日本との関係に関する資料展示がなされている。また、日本ゆかりの殉教者たちの聖遺骨が安置保管されている「栄光の間」もある。また、1階、2階とも美しいステンドグラスが配されている。
記念館を見学した後は、白を基調とし、ステンドグラスを通した柔らかな光に溢れる聖堂を有する聖フィリッポ教会に立ち寄ってみたい(拝観無料)。
記念館では1階ゾーンでは「26聖人の旅」「キリスト教伝来」「受容・発展・交流」「迫害・殉教」などの順に日本おけるキリスト教伝来の歴史などの資料展示がされ、2階ゾーンで世界のキリスト教の動向と日本との関係に関する資料展示がなされている。また、日本ゆかりの殉教者たちの聖遺骨が安置保管されている「栄光の間」もある。また、1階、2階とも美しいステンドグラスが配されている。
記念館を見学した後は、白を基調とし、ステンドグラスを通した柔らかな光に溢れる聖堂を有する聖フィリッポ教会に立ち寄ってみたい(拝観無料)。
補足情報
*26人のキリスト教徒:フランシスコ会宣教師6名、日本人イエズス会修道士3名、日本人信徒17名。
*殉教:日本におけるキリスト教の布教と弾圧、殉教の歴史は1549(天文18)年、鹿児島にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが上陸したことにはじまる。まず、布教は困難を極めたが、九州地方など中心に徐々に広がり、宣教師の保護・布教の容認と南蛮貿易での利権を確保しようとする動きの中で、キリスト教に改宗する大名も現れた。1571(元亀2)年には日本初のキリシン大名である大村純忠が領内の長崎を開港し、ポルトガルとの貿易を開始した。ポルトガルやスペインは、カトリックの布教を貿易の条件としたため、長崎では盛んに布教が行われ、多くの住民がキリスト教に改宗した。1580(天正8)年、純忠は長崎をイエズス会に寄進し、長崎の町は教会領となった。このことを危険視し、それまでは容認していた豊臣秀吉は、1587(天正15)年にバテレン追放令を出し、翌年には長崎を直轄地としたが、一方では秀吉は貿易を奨励したためキリスト禁教は不徹底なものであった。しかし、1596(慶長元)年に至り、スペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着すると、スペインが領土拡大のために宣教師を利用しているという話が伝わった。これを聞いた秀吉は激怒し、京阪地方の宣教師と信徒を捕らえ、徒歩で長崎まで連行したのち、この地の西坂の丘で処刑した。その後も、西坂の丘ではキリスト教徒の処刑が度々行われ、数百人がこの地で殉教したという。
*殉教:日本におけるキリスト教の布教と弾圧、殉教の歴史は1549(天文18)年、鹿児島にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが上陸したことにはじまる。まず、布教は困難を極めたが、九州地方など中心に徐々に広がり、宣教師の保護・布教の容認と南蛮貿易での利権を確保しようとする動きの中で、キリスト教に改宗する大名も現れた。1571(元亀2)年には日本初のキリシン大名である大村純忠が領内の長崎を開港し、ポルトガルとの貿易を開始した。ポルトガルやスペインは、カトリックの布教を貿易の条件としたため、長崎では盛んに布教が行われ、多くの住民がキリスト教に改宗した。1580(天正8)年、純忠は長崎をイエズス会に寄進し、長崎の町は教会領となった。このことを危険視し、それまでは容認していた豊臣秀吉は、1587(天正15)年にバテレン追放令を出し、翌年には長崎を直轄地としたが、一方では秀吉は貿易を奨励したためキリスト禁教は不徹底なものであった。しかし、1596(慶長元)年に至り、スペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着すると、スペインが領土拡大のために宣教師を利用しているという話が伝わった。これを聞いた秀吉は激怒し、京阪地方の宣教師と信徒を捕らえ、徒歩で長崎まで連行したのち、この地の西坂の丘で処刑した。その後も、西坂の丘ではキリスト教徒の処刑が度々行われ、数百人がこの地で殉教したという。
関連リンク | 日本二十六聖人記念館(WEBサイト) |
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参考文献 |
日本二十六聖人記念館(WEBサイト) 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」(一般社団法人長崎国際観光コンベンション協会)(WEBサイト) 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」(一般社団法人長崎国際観光コンベンション協会)(WEBサイト) 「長崎の世界遺産めぐり「オトナ周楽旅行」ハンドブック」(一般社団法人 長崎県観光連盟、2019年1月) 国史大辞典 |
2024年09月現在
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