眼鏡橋めがねばし

長崎市内中央を流れる中島川に架かる。長さ22.35m、幅4.68mで、2つのアーチが川面に映った姿が眼鏡に見えることが名前の由来。
 1634(寛永11)年、興福寺*2代住職だった中国江西省出身の唐僧 黙子如定(もくすにょじょう)が架設した日本最古のアーチ型石橋。それ以前、中島川(当時は大川と称した)にかかる橋の多くは木橋だったが、腐りやすく大雨で流されてしまうことも多かったため、丈夫な石橋が造られた。如定が技術指導し、費用は興福寺に関係する中国人たちの寄付によるものと考えられている。その後、中国人や日本人の有力者が競うように石橋を架け、最多時には17~18の石橋があった。また、寺町*の各寺院にいたる参道としての位置づけもあったという。現在、中島川にかかる石橋を総称して、中島川石橋群と呼んでいる。
 1982(昭和57)年7月の長崎大水害で、6橋が全壊、眼鏡橋を含む3橋が半壊という大きな被害を受けた。半壊した眼鏡橋・桃渓橋・袋橋は復元、全壊した編笠橋、古町橋、一覧橋、東新橋の4橋は石橋として架け直され、”昭和の石橋”と称されている。
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みどころ

石造りの重厚な橋が連なる風格ある景観は、長崎独特の風情を醸し出している。江戸時代に作られた石橋がいまだに現役で、日常生活に溶け込んでいることに驚きを感じる。
 中島川石橋群一帯には遊歩道が整備されており、そぞろ歩きが楽しめる。ベンチに腰掛けて柳の緑がそよぐ水辺の風景を楽しむのもよし、橋下へ通じる階段を下りて川岸を散策するのもよい。
 きれいな眼鏡の形に写真に収めるなら、下流の袋橋側からがおすすめ。
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補足情報

*興福寺:寺町にある。同じ黄檗宗寺院の崇福寺、福済寺とともに「唐三カ寺」と称され、このなかでもっとも古い寺。1620(元和6)年に渡来した中国の僧真円が創始、以後在留の南京地方出身者の帰依寺となり、次々と唐風の堂宇が建てられた。3代逸然の時、明の高僧隠元を迎え、隠元が宇治万福寺を開くまでここに滞在したことは有名。その際、隠元が中国から持参した豆がいんげん豆の名の由来。山門を入ると、芝生の広がる境内に純唐風の大雄宝殿・媽姐堂・鐘鼓楼などの堂宇や、三江会所門が配されている。眼鏡橋は興福寺の参道として造られたとされる。
*寺町:キリスト教を禁じる江戸幕府は、長崎でのキリシタンの一掃とともに仏教の復興にも力を入れたため、寺院が密集する寺町が形成された。
*東京の日本橋、山口の錦帯橋とともに日本三名橋のひとつに数えられる。