金刀比羅宮ことひらぐう

古くから「さぬきのこんぴらさん」として親しまれてきた金刀比羅宮は、仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する、全国の金刀比羅神社の総本宮である。参道の長い石段は、本宮まで785段、奥社まで合計すると1,368段にも及ぶ。神域の入口である大門(おおもん)までは石段の両側に土産物店が軒を連ねる。広い境内には本宮のほか書院、旭社、四脚門、賢木門などの由緒ある建造物のほか、いくつかの境内社が祀られている。また、歴代の住職や宮司が江戸参府の折などに購入したもの、体系的に収集したもの、奉納されたもの、坂出市の白峯寺境内の頓證殿(崇徳上皇廟)に伝来していたものなど、多くの文化財があり、宝物館などに所蔵・展示されている。
 由緒には諸説あり、神社としての草創年代も不明だが、1165(長寛3・永万元)年には生前ゆかりのあった崇徳天皇*を合祀している。明治新政府の神仏分離の方針に従い、祭神を大物主神(おおものぬしのかみ)*とする神社となるまでは、「金毘羅大権現*」と称する神仏習合の寺であった。金毘羅大権現は古くから海上交通の守護神として崇敬され、室町時代には庶民の信仰の対象となっていたと考えられているが、その記録が残るのは近世以降である。かつて、現在の本宮の場所には松尾寺*という神仏習合の寺があり、本尊・十一面観音の守護神である三十番神の堂が本堂の奥にあった。1573(元亀4・天正元)年、松尾寺の塔頭である金光院の院主・宥雅(ゆうが)が、金毘羅神を新たな守護神として堂を建立した。金毘羅の語源は、ヒンズー教でガンジス河のワニを神格化した水神「クンピーラ」で、仏教に取り入れられて十二神将の宮毘羅(くびら)大将となった。江戸時代初期、金光院は天狗信仰を取り入れ、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及した*。御用船方である塩飽水軍の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて江戸や大阪など諸国の港を出入りしていたことも、金毘羅大権現への信仰を広めたと言われる。その後も、高松藩主の庇護を受けて1648(天保5・慶安元)年に朱印地となり、1753(宝暦3)年には朝廷の禁裏勅願所となるなど、公武の公認を得て名声を高めた。庶民が旅行を禁じられていた江戸時代においても、神仏への参拝は許されており、とりわけ伊勢神宮への参拝の旅は「お伊勢参り」と呼ばれ、庶民にとって一生に一度の憧れであった。それと並び称されたのが「こんぴら詣で」で、江戸時代後期になると、講を組んだ庶民の参詣が、天保年間(1830~1844年)を最盛期として急増し、代参としての「こんぴら狗」*や「流し樽」*の風習がうまれた。
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みどころ

金刀比羅宮の総門の大門は石段の365段目に位置する。高松藩主・松平頼重(水戸光圀の兄)から寄進された、二層入母屋造・瓦葺の旧仁王門で、左右に金剛力士像があったが、神仏分離で武者像に変わった。手前には時太鼓を備えた「鼓楼」がある。大門から参道口の方を振り返ると、なかなかよい景色である。
 大門をくぐると、大きな日傘を立てた5軒の露天商が「加美代飴」という扇型のべっこう飴を売っている。これらの店は「五人百姓」と称する。先祖代々、神事の準備などの役割を務めてきた家で、特別に境内での営業を許されている。ここから150mほど続く傾斜が緩やかな石畳の道は、「桜馬場」と呼ばれ、桜の名所である。4月10日の桜花祭、11月10日の紅葉祭で平安装束の巫女行列の舞台となる。桜馬場の右手には宝物館*があり、その上にある高橋由一館*、青銅の鳥居のある石段を上った右手にある書院*と合わせて、一帯が「文化ゾーン」として整備されている。書院の前で左手に折れると神馬のいる広場があり、カフェ・レストラン「神椿」がある。
 ここからもう一つ石段を上ったところが旭社*で、ここから先は、上りと下りに通路が分かれる。賢木門*(さかきもん)をくぐり、御前四段坂と呼ばれる急な階段を上りきると、すぐ目の前に本宮社殿が現れる。大社関棟造、檜皮葺の独特な重厚な荘厳な社殿で、1878(明治11)年に改築されたもの。本宮の左手に大物主神の后を祀る三穂津姫社*、さらに左手には絵馬堂があり、航海安全を祈願する絵馬が奉納され、瀬戸内海の船乗りが海に流す「流し樽」がある。海抜251mの本宮の北東側には、広々とした展望台が設けられおり、琴平の門前町をはじめ、讃岐富士や讃岐平野を一望でき、天気の良い日には瀬戸大橋まで見ることができる。
 本宮の右から裏に回ると奥社へ約1km、583段の石段が続く。こちらの石段は、距離は長いが傾斜はゆるやかである。常磐神社、白峰神社*、菅原神社を経て、15から20分ほどで奥社・厳魂神社(いづたまじんじゃ)に着く。松尾寺を中興した金光院第4代別当金剛坊宥盛を、神仏分離で廃寺後に厳魂彦命として奥社に祀っている。社殿に向かって左の岩壁に天狗とカラス天狗の彫物が掛けてある。下から見ると分かりにくいが、忘れずに見ておきたい。
 帰りは、宝物館の奥や大門下の掃海殉職者顕彰碑の奥から神苑を経て裏参道を下ると、途中に図書館や学芸参考館がある。そのほかにも、「神椿」から笑顔未来橋を経て旧伊予土佐街道に出たり、一之鳥居の脇から琴平公園や旧金毘羅歌舞伎大芝居を回るなど、行きとは違う道を通ることもできる。(勝田 真由美)
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補足情報

*崇徳上皇は保元の乱(1156(久寿3・保元元)年)の後に讃岐国に配流となった際、金毘羅大権現境内の「古籠所」に参籠したと伝わる。
*大物主神:大国主神の和魂神(にぎたまのかみ)。荒魂(あらたま)が神の荒々しい側面であるのに対し、和魂とは神の優しく、平和的な側面もある。
*権現:神仏習合の様式の一つである本地垂迹説では、神社の祭神が仏の現世での姿(権現)であるとされた。
*松尾寺:明治政府による神仏分離の後、塔頭のうち普門院が唯一再興し、松尾寺普門院として法灯を継承している。公会堂の近くにある。
*金毘羅参りの際に、天狗の面を背負う習俗も生まれ、歌川広重『東海道五十三次・沼津』にも描かれている。
*こんぴら狗:飼い主の代わりに金毘羅大権現へ参る犬。首にお賽銭などが入った袋をかけ、道中出会った旅人や街道筋の人々に世話されながら、参拝を果たした。
*流し樽:金毘羅の近くを航行する船が、樽に初穂料を入れ、「奉納 金刀比羅宮」と書いた幟を立てて海に流す。それを見つけた地元の漁師などが拾い、代わりに金刀比羅宮に奉納する今も続く風習である。
*宝物館:シカゴ万博日本館を設計した旧文部省技師の久留正道の設計により、1905年(明治38)年に建てられた。香川県広島産の花崗岩(青木石)による二層建、屋根は入母屋造で青木石の瓦葺、玄関は唐破風造(からはふうづくり)の銅葺、という和洋折衷の重厚な建物。金光院観音堂の本尊だった「十一面観音立像」や狩野探幽、尚信、安信の三兄弟が描いた「三十六歌仙額」などが展示されている。
*高橋由一館:かつて学芸参考館にあった、日本近代洋画の祖、高橋由一の油絵、27点を常設展示している。2001(平成13)年に高橋由一による明治中期の宮司・琴陵宥常の肖像画が発見された話題となった。金刀比羅宮が所蔵する作品はすべて、由一を支援するために宥常宮司自ら購入したものである。
*書院:かつての客殿で建物自体が重要文化財である。書院の正門である四脚門は参道脇にある黒門から奥に見え通常は閉まっている。1659(万治2)年の建築と伝えられる入母屋造、檜皮葺の表書院をはじめ、数寄屋風の奥書院、1877(明治10)年建造の白書院がある。表書院は、江戸時代の代表的な画家、円山応挙の障壁画で知られる。奥書院には、伊藤若冲の「花丸図」や岸岱(がんたい)の障壁画が残されている。普段一般公開されているのは表書院のみ。表書院の前庭では5月5日、7月7日、12月末の年3回蹴鞠が催される。
*旭社: 1837(天保8)年建造の二層入母屋造の壮麗な社殿で、全体に多くの美しい彫刻がなされている。神仏分離以前の金堂で、薬師如来と十二神将を祀っていた。本宮の後に参拝するのが習わし。江戸時代に参拝した森の石松は本殿へ行かず、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。向かって右前にある雨水を溜める大きな鉄瓶に一円玉が浮かぶと願いが叶うといわれている。
*賢木門:唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根で、1584(天正12)年に長曽我部元親が寄進。旧二天門で多聞天と持国天を有した。
*三穂津姫社:旧金毘羅大権現の観音堂で、本尊の十一面観音菩薩は現在、宝物館に展示されている。
*白峰神社:崇徳天皇と、その母である待賢門院を祀る。鮮やかな朱塗流造、桧皮葺の本殿。周辺は紅葉谷と呼ばれ、秋になると紅葉で彩られる。