藍の館あいのやかた

藍住町とその周辺に藍作と藍染が発達したのは、吉野川が氾濫するたびに、毎年新しい壌土を運んでくれるため、土中の養分吸収度が高い藍でも、連作障害を起こすことがなかったからである。
 藍作が盛んになったのは、1585(天正13)年、かねてから藍作に深い関心をもっていた蜂須賀家政*が播磨から国主として阿波に入封してからである。彼は、播磨から藍の種とともに藍師を呼び寄せ、藩の産業として藍作を奨励した。木綿が江戸時代、日本各地で生産されるようになるにつれ、庶民の間にも浸透していき全国に紺屋が栄えるようになる。紺屋の隆盛に支えられ、「蜂須賀25万石藍50万石」といわれるまでの繁栄をきわめた。
 吉野川には、蒅(すくも)や藍玉*を満載した平駄舟が行き交い、藍師たちは豪壮な蔵屋敷を構え、藍の藩外販売権を一手に引き受けた藍商の勢いには、目を見張るものがあった。阿波藍の繁栄は、明治以降も続くが、大正時代に入るとヨーロッパで開発された化学染料インディゴ・ピュアが渡来し、人びとの生活と藍染は縁遠いものとなっていった。1903(明治36)年、1,500万m2にも達した藍畑も、1966(昭和41)年には、わずか4万m2に減ってしまう。しかし、阿波の正藍は息絶えることなく、伝統技術を守り続ける藍師たちによって受け継がれ、最近では、阿波の藍畑は、広がりつつある。
 藍住町一帯は、江戸時代初期から明治40年代(1868~1912年)にかけ、阿波の経済を支えた藍作りの中心地で、今でも白壁に囲まれた壮大な構えの藍商(藍師)屋敷を見かける。奥野の諏訪神社の玉垣には、阿波藍の繁栄を物語る藍商たちの名が多く残っており、広大な境内地を囲むさまは見事である。
 藍住町歴史館「藍の館」は、こうした阿波藍と藍商に関する文化財を保存・公開する施設である。ここは、旧藍商奥村家から町へ寄贈された奥村家住宅と、敷地内に町が新設した展示館からなる。吉野川をはさんだ石井町には、国の重要文化財となっている藍商の田中家住宅*がある。
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みどころ

「藍の館」にある奥村家は1808(文化5)年、上棟の主屋・藍寝床(藍の加工場)・土蔵など13棟が並び、江戸時代の姿をそのまま伝える。主屋と3棟の藍寝床の内部は見学できる。藍取引の様子を再現したジオラマや阿波藍栽培加工用具一式93点(国民俗)などが展示されている。東寝床では藍染体験もできる。住宅と展示館を結ぶ大門は、明治時代初期に解体された旧徳島城の門を移築したものと伝えられる。展示館には阿波藍染の着物や関係資料、奥村家ゆかりの調度品のほか、藍住町内に伝わった日本最古級の鉄兜など、珍しい歴史資料を展示している。
 藍染の色は、染液に浸す時間や回数によって微妙な濃淡を見せ、その色合いは、淡いほうから瓶覗(かめのぞき)、浅葱(あさぎ)、縹(はなだ)、藍、紺、褐色(かちいろ)などといった色名が付けられている。藍染された衣類やスカーフなどは、洗えば洗うほど、藍色が美しくなっていくという、化学染料とはちがった本物の良さがある。
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補足情報

*蜂須賀家政:1585(天正13)年、老齢を理由に辞退した父正勝にかわり、阿波国内で17万6,000石を与えられた。家政は、はじめ要塞堅固な一宮城(現、徳島市一宮町)を居城にしたが、すぐに猪山(渭山)の地を選び築城を開始するとともに、渭津(いのつ)を徳島と改めた。城は1586(天正14)年に完成。国瑞彦神社に、正勝、家政ら藩主らが合祀されている。
*蒅(すくも)や藍玉:7月下旬から8月下旬に収穫した葉藍を夜のうちに1cm程の刻んで乾燥させる。乾燥した葉藍を葉と葉脈に分け俵に詰め、それぞれ寝床に保管する。9月になると、藍を俵から出し、山積みしながら水を打つ。4~5日すると発酵して高温になる。葉藍がまんべんなく発酵するように20回ほど移動する。切り返しという重労働が100日ほど続く。蒅の仕上げが近づくと、むしろで葉藍をおおい、平温の状態になるのを待つ。12月中旬、蒅ができあがる。蒅ができあがると、俵に詰め(60kg)て保存。いまは蒅を溶解して染液をつくるが、昔は藍玉にして出荷した。藍商の店頭には、葉藍や蒅を売り込みに来る仲買人や藍玉を買い付けにくる藍問屋の人たちで賑わった。
*田中家住宅:400年前に入植し、洪水で家が2度流され、現在の家は1837(天保8)年に、高さ約26mの石垣造成から約50年かけて完成した。瓦屋根のうえに茅葺屋根がのった母屋。洪水時には、茅葺屋根が救命ボートになる。藍の栽培、染料・蒅(すくも)の製造に使われた道具など、予約のうえ見学できる。
関連リンク 藍の館
参考文献 藍の館
『徳島県の歴史散歩』
『阿波の藍』ANA April 1989
『藍住町歴史館 藍の館』

2023年02月現在

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