四国八十八ヶ所・お接待しこくはちじゅうはちかしょ・おせったい

四国八十八ケ所めぐりは弘法大師信仰の一つといわれる。
 古代・中世の四国は、遍歴や巡礼を重ねる僧侶が修行を行う地であった。そのことは「今昔物語」(11世紀末から12世紀前半の成立)や歌謡集「梁塵秘抄」(12世紀後半に成立)に記されている。四国が修行の地であったのは、四国が仏教の後進地域であったため仏教を根付かせる必要性があったことや、都から南西の地にあり四国に浄土世界があるとされていたからである。
 修行僧の代表が、讃岐生まれの弘法大師こと空海である。空海著『三教指帰(さんごうしいき)』797(延暦16)年に太龍寺と最御崎寺で修行したことが記載されている。大師の高弟真済(しんぜい)*が大師入定後にその遺跡を巡り歩いたのが始まりと伝えられ、鎌倉時代になると、大師の遺跡を巡る修行が始まり、「四国辺路」と呼ばれる巡礼としての形が整えられてきた。室町時代末期から江戸時代初期にかけて、多様な宗教宗派を取り込んで*、八十八の札所が固定され、定着していった。江戸時代に入り、庶民による四国辺路が盛んになった。札所霊場は、四国の変化に富んだ地形や景観のもとで、巡礼者を迎え入れていった。四国遍路の大衆化に大きく貢献したのが、僧真念による「四国辺路道指南」1687(貞享4)年で、当時、異例のベストセラーとなった。
 八十八の数字は人間のもつ八十八の煩悩を減却し、功徳を得るというもので、阿波の1番から23番までの発心の道場、土佐の24番から39番までを修行の道場、伊予の40番から65番までを菩提の道場、讃岐の66番から88番までを涅槃の道場という。1番霊山寺から順に88番の結願所(けちがんしよ)の大窪寺へ巡拝するのを「順打ち」という。さらに結願所に杖を納めたのち、10番の切幡寺へ出て1番霊山寺まで「逆打ち」をし、高野山金剛峯寺へ詣でるのが正式な行程である。また閏年には逆打ちするという風習が残る。
 遍路の装束*に身を固め、御詠歌*を歌いながら、札所巡りとなる。近年は旅館・ホテルを利用する遍路も多い。かつては50~60日かかった遍路も、鉄道・バスの利用で25日ほど、貸切タクシーだと9日ほどでまわれる。定期観光バスもある。
 接待にはさまざまあり、道筋の小さな休憩所で、うどんやお菓子、お茶など出してくれたり、通夜堂や善根宿*と呼ばれる遍路宿に無料で泊めてくれたりする。
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みどころ

四国は、「接待の島」といわれる。歩きのお遍路さんを受け入れる地元の人たちは、自分の願いを仏に近い修行者であるお遍路に託す「大師様への功徳」として、お接待をする。そのような意味があるから、お接待を断ってはいけない。「お接待をしていただいてありがとう」と「お接待をさせていただいてありがとう」、この二つの「ありがとう」が四国の心である。「感謝」の気持ちを込めてありがとうと。できれば「納札」を渡すのも作法である。
 金剛杖を通して大師の導きがあるといわれ、「南無大師遍照金剛」という名号を唱え、御詠歌を歌いながら歩く。札所へ着くと納札をし、本尊に礼拝する。納札には月日と氏名を書き、必ず「同行二人(どうぎようににん)」と書く。これは一人でも常に大師と一緒に巡礼しているという信仰心からである。
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補足情報

*真済(しんぜい):800(延暦19)年に生まれ、860(貞観2)年に亡くなる。真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられる。空海の詩文を集めた「遍照発揮性霊集」十巻を編纂したことで有名。さらに空海の口訣をまとめたとされる「高雄口訣」は東密(東寺を本山とし、空海を祖とする真言密教)で尊重されているもの。
*多様な宗教宗派を取り込んで:四国八十八ヶ所の霊場のうち、現在でも天台宗が4ヶ寺、臨済宗が2ヶ寺、曹洞宗が1ヶ寺、時宗が1ヶ寺ある。
*装束:白衣に白い手甲・脚絆をつけ、草鞋(わらじ)を履き、「同行二人」、「迷故三界城悟故十万空本来無東西・何所有南北」と書かれた菅笠をかぶり、背には行李を荷なう。首に輪袈裟をかけ納札入れを下げ、右に金剛杖、左に鈴と数珠を持つ。札所1番の霊山寺の納経所兼売店で装束を整えることができる。
*御詠歌:三十一文字短歌形式の巡礼歌で、民衆の間に定着したのは江戸時代初期ごろといわれている。
*善根宿:修行僧や遍路、貧しい旅人を、無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされる。