御神幸祭裸坊祭
御神幸祭は防府天満宮の大祭。903年(延喜3)年、菅原道真*が左遷された太宰府の地で没してから、約100年後の1004(寛弘元)年に、一条天皇より菅原道真に深い所縁のある当天満宮に勅使*が遣わされ、「無実」を知らせ、御霊を慰める神祭事である勅使降祭が斎行されたのが始まりとされる。
御神幸祭は9月上旬の大・小行司お籤上げ神事に始まり、同月中旬の御分霊奉送式、10月第二日曜日の花神子社参式、大祭前8日に境内の新しい斎竹に注連縄が張られる「おはけ」、大・小行司役夜々詣り、そして前夜祭などが大祭の日までに順次斎行される。
大祭の当日、11月第4土曜日は大・小行司のお宮入りに始まり、夕方には網代輿や神輿が発輦し、天満宮から2.5kmはなれた勝間浦の御旅所(浜殿)に向かう。この際に白装束姿の数千人の「裸坊」が、掛声も勇ましく神輿を担ぎ、網代輿を載せた台車を供奉して御旅所(浜殿)まで練り歩くのが「裸坊祭」*と称され、荒祭として有名である。道真の霊に「無実」を知らせる浜殿神事が御旅所で行われた後、再び天満宮へ帰還し、網代輿や神輿が一挙に大石段を担ぎあげられる。最後に御還幸祭が執り行われ、御神幸祭の幕が閉じられる。
御神幸祭は9月上旬の大・小行司お籤上げ神事に始まり、同月中旬の御分霊奉送式、10月第二日曜日の花神子社参式、大祭前8日に境内の新しい斎竹に注連縄が張られる「おはけ」、大・小行司役夜々詣り、そして前夜祭などが大祭の日までに順次斎行される。
大祭の当日、11月第4土曜日は大・小行司のお宮入りに始まり、夕方には網代輿や神輿が発輦し、天満宮から2.5kmはなれた勝間浦の御旅所(浜殿)に向かう。この際に白装束姿の数千人の「裸坊」が、掛声も勇ましく神輿を担ぎ、網代輿を載せた台車を供奉して御旅所(浜殿)まで練り歩くのが「裸坊祭」*と称され、荒祭として有名である。道真の霊に「無実」を知らせる浜殿神事が御旅所で行われた後、再び天満宮へ帰還し、網代輿や神輿が一挙に大石段を担ぎあげられる。最後に御還幸祭が執り行われ、御神幸祭の幕が閉じられる。

みどころ
大祭の夕方、防府天満宮の拝殿正面の扉が開かれると同時に、数百人の「裸坊」が拝殿に入り、「兄弟わっしょい」の掛声があがり、祭が一挙にクライマックスに向かう。次々に神輿が担ぎ出されて千人を超える「裸坊」たちが取り囲む。次いで重さ500kgもある御網代輿が拝殿から楼門を抜け正面の大石段をガタガタ大きな音を立てながら滑り降り、迫力満点。5千人にものぼるという「裸坊」たちがせめぎ合い、歓声をあげる姿に圧倒される。このあと、網代輿が台車に載せられ、神輿は担がれ、これを供奉して勝間ヶ浦のお旅所まで練り歩き盛り上がる。還幸の際も拝殿への押し上げは熱気に包まれ、大きな歓声があがり、祭は最高潮となる。

補足情報
*菅原道真:845(承和12)~903(延喜3)年。平安前期の公卿・文人。877(元慶元)年文章博士、886(仁和2)年讃岐守。894(寛平6)年には遣唐使中止を建言。その後宇多天皇の信任を得て、899(昌泰2)年には右大臣となった。901(延喜元)年に藤原氏の讒言により大宰権帥に左遷され、当地で没する。死後、怨霊として広く恐れられ、霊を鎮めるため、993(正暦4)年に正一位・太政大臣を追贈された。漢詩文集には「菅家文草」などがあり、「三代実録」の編纂事業に参画し「類聚国史」を編述した。
*勅使:天保年間の地誌「防長風土注進案」では、「大日本史」の記事を紹介し、「寛弘元(1004)甲辰九月(一条)天皇菅神之霊験を感し給ふて十月始て(京都)北野の菅廟に行幸し給ふ」として、さらに「菅家傳」と「社傳」を引用し「此月十五日始而(て)當所(防府天満宮)江(へ)勅使降祭有り」としている。
*「裸坊祭」:江戸時代後期の天神信仰が民衆にも広まり、それまで、大・小行司役をはじめとする神官・僧侶だけが、この神祭事に奉仕していたが、その奉仕に参加することを熱望するようになり、裸になって、身を清め、潔白を示して供奉できるようになったという。これが裸坊祭の始まりだとされる。「防長風土注進案」のなかにも「御供市中其外在々之者數千人、中には裸素足之願あり、聲を立押合馳行足も地につかず、然れ共怪我人是無ク誠に御神徳なり、還御之時は御迎之高挑灯數百、社前大石段車を解かす引揚げる時數千人之もの手に手を繋キ逸参に引揚け其聲夥しく有之候事」と臨場感あふれ筆致になっており、江戸後期には現在と同様の祭だったことがわかる。
*勅使:天保年間の地誌「防長風土注進案」では、「大日本史」の記事を紹介し、「寛弘元(1004)甲辰九月(一条)天皇菅神之霊験を感し給ふて十月始て(京都)北野の菅廟に行幸し給ふ」として、さらに「菅家傳」と「社傳」を引用し「此月十五日始而(て)當所(防府天満宮)江(へ)勅使降祭有り」としている。
*「裸坊祭」:江戸時代後期の天神信仰が民衆にも広まり、それまで、大・小行司役をはじめとする神官・僧侶だけが、この神祭事に奉仕していたが、その奉仕に参加することを熱望するようになり、裸になって、身を清め、潔白を示して供奉できるようになったという。これが裸坊祭の始まりだとされる。「防長風土注進案」のなかにも「御供市中其外在々之者數千人、中には裸素足之願あり、聲を立押合馳行足も地につかず、然れ共怪我人是無ク誠に御神徳なり、還御之時は御迎之高挑灯數百、社前大石段車を解かす引揚げる時數千人之もの手に手を繋キ逸参に引揚け其聲夥しく有之候事」と臨場感あふれ筆致になっており、江戸後期には現在と同様の祭だったことがわかる。
関連リンク | 防府天満宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
防府天満宮(WEBサイト) 山口県文書館編修「防長風土注進案 第9巻」1983年 71・74/388 国立国会図書館デジタルコレクション 山口県防府市観光情報ポータルサイト「たびたびほうふ」(WEBサイト) |
2025年03月現在
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