防府天満宮
JR山陽本線防府駅から北へ1.5kmほどのところにある。同天満宮の縁起では、菅原道真*1が筑紫大宰府への左遷の途中、周防国司で同族の土師氏*2のところに立ち寄ったという因縁を伝え、903(延喜3)年、道真が志半ばで大宰府において亡くなったことを知った国司土師信貞が904(延喜4)年に創建*3したとされていることから、日本最古の天満宮(天神様)*4と称されている。創建当時はこの地の地名だった「松崎の社」*5と号していた。現在の社殿*6は1963(昭和38)年に再建されたもので、境内には歴史館(宝物殿)*7があり、社殿背後は市街と瀬戸内海を見晴らす天神山公園になっている。
毎年11月の第4土曜日に開かれる御神幸祭裸坊祭で知られる。
毎年11月の第4土曜日に開かれる御神幸祭裸坊祭で知られる。

みどころ
防府の中心街から、参道を天神山に向かって歩いて行くと、石段の上にひときわ目立つ、朱塗の楼門が建つ。天神山の緑に映え美しい。楼門をくぐると、一転、質実な白木の本殿が荘重感を与えてくれる。本殿の右手、参集殿の裏には「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花、主なしとて春を忘れそ」と詠んだ祭神菅原道真に因み梅林が広がっている。さらにその裏手から天神山公園の緑が続いている。
また、本殿の左手、回廊の外には、春風楼という建物が立っているが、その形状が神社建築としては珍しいもの。この建物は、江戸末期に本来は当時あった社内の坊院の五重塔として計画され、建造がはじまったものの中断し、1873(明治6)に重層の楼閣様式に変更して完工したものという。楼上からの市街の眺めが良い。
帰りには、歴史館に寄り、縁起絵巻を見て「天神さま」の成り立ち学ぶのも興味深い。
また、本殿の左手、回廊の外には、春風楼という建物が立っているが、その形状が神社建築としては珍しいもの。この建物は、江戸末期に本来は当時あった社内の坊院の五重塔として計画され、建造がはじまったものの中断し、1873(明治6)に重層の楼閣様式に変更して完工したものという。楼上からの市街の眺めが良い。
帰りには、歴史館に寄り、縁起絵巻を見て「天神さま」の成り立ち学ぶのも興味深い。

補足情報
*1 菅原道真:845(承和12)~903(延喜3)年。平安前期の公卿・文人。877(元慶元)年文章博士、886(仁和2)年讃岐守。894(寛平6)年には遣唐使中止を建言。その後宇多天皇の信任を得て、899(昌泰2)年には右大臣となった。901(延喜元)年に藤原氏の讒言により大宰権帥に左遷され、当地で没する。死後、怨霊として広く恐れられ、霊を鎮めるため、993(正暦4)年に正一位・太政大臣を追贈された。漢詩文集には「菅家文草」などがあり、「三代実録」の編纂事業に参画し「類聚国史」を編述した。
*2 土師氏:もともとは王族・高官の陵墓築造などに関わっていた土師部の伴造氏族だったが、葬礼の変化とともに官人化し、全国各地に居住していたといわれる。8世紀には改氏姓を請願し、菅原、秋篠、大枝(のちに大江)の3氏に分派した。周防における土師氏は、当時、周防国吉敷郡から長門国阿武郡にかけて勢力を有して国司あるいは在庁官人などを務めていたと考えられている。
*3 創建:創建に関する伝承として、江戸後期の地誌「防長風土注進案」によると903(延喜3)年春に「神光勝間浦(現・防府市勝間・かつては海)に現し瑞雲酒垂之嶺(天神山)に聳ゆ、國司信貞寄(奇)異之思をなし拝崇し奉る 御遺言之旨も有りければ若や薨御にても有んかと察し(太)宰府に使を下し御安否を伺奉るに、二月廿五日薨御し給ふ由告歸りければ、悲嘆之餘り御密契之旨に任せ松ヶ崎に神廟を假に營みて菅公之神靈を祭り奉る」としている。
*4 天満宮(天神):菅原道真を祀る。「てんまぐう」とも「天神さん」とも呼ばれる。道真の没後、志半ばで亡くなった道真の怨霊が朝廷をはじめ京都などで恐れられて、北野に神として祀られた(現在の北野天満宮)。その後、道真が神号として「天満大自在天神」と追諡されたので、天満天神、火雷天神などと呼ばれるようになり、この名が一般化した。防府をはじめ、太宰府、北野のほかにも全国各地に勧請され、学問の神として、また、雷神信仰と結びつき農業関連の神としても祀られるようになった。
*5 「松崎の社」:社名は、松ヶ崎天神、酒垂山天満宮などと変遷し、明治期には松崎神社と改称したが、1953(昭和28)年に再び改称して防府天満宮とした。また、江戸時代以前には社内に円楽坊、大専坊など9坊の僧坊もあり、酒垂山満福寺と称していた。
*6 社殿:創建以降では、1195(建久6)年に東大寺の重源により社殿が造替され、その社殿は1330(元徳2)年に炎上。その後14世紀後半に大内氏が再建したが、1526(大永6)年に再度焼失し、これも再建、修造された。さらに1789(寛政元)年萩(長州)藩7代藩主毛利重就により造替されたものの、1952(昭和27)年に三度炎上してしまった。現在の社殿の主なものは1963(昭和38)年までに建立されたもの。
*7 歴史館(宝物殿):国指定の重要文化財9点をはじめ多数の社宝を収蔵展示。とくに鎌倉時代に制作された全6巻の絵巻「紙本著色松崎天神縁起絵巻 箱入」は、華麗な色彩と的確な描写で必見。入館有料。
*2 土師氏:もともとは王族・高官の陵墓築造などに関わっていた土師部の伴造氏族だったが、葬礼の変化とともに官人化し、全国各地に居住していたといわれる。8世紀には改氏姓を請願し、菅原、秋篠、大枝(のちに大江)の3氏に分派した。周防における土師氏は、当時、周防国吉敷郡から長門国阿武郡にかけて勢力を有して国司あるいは在庁官人などを務めていたと考えられている。
*3 創建:創建に関する伝承として、江戸後期の地誌「防長風土注進案」によると903(延喜3)年春に「神光勝間浦(現・防府市勝間・かつては海)に現し瑞雲酒垂之嶺(天神山)に聳ゆ、國司信貞寄(奇)異之思をなし拝崇し奉る 御遺言之旨も有りければ若や薨御にても有んかと察し(太)宰府に使を下し御安否を伺奉るに、二月廿五日薨御し給ふ由告歸りければ、悲嘆之餘り御密契之旨に任せ松ヶ崎に神廟を假に營みて菅公之神靈を祭り奉る」としている。
*4 天満宮(天神):菅原道真を祀る。「てんまぐう」とも「天神さん」とも呼ばれる。道真の没後、志半ばで亡くなった道真の怨霊が朝廷をはじめ京都などで恐れられて、北野に神として祀られた(現在の北野天満宮)。その後、道真が神号として「天満大自在天神」と追諡されたので、天満天神、火雷天神などと呼ばれるようになり、この名が一般化した。防府をはじめ、太宰府、北野のほかにも全国各地に勧請され、学問の神として、また、雷神信仰と結びつき農業関連の神としても祀られるようになった。
*5 「松崎の社」:社名は、松ヶ崎天神、酒垂山天満宮などと変遷し、明治期には松崎神社と改称したが、1953(昭和28)年に再び改称して防府天満宮とした。また、江戸時代以前には社内に円楽坊、大専坊など9坊の僧坊もあり、酒垂山満福寺と称していた。
*6 社殿:創建以降では、1195(建久6)年に東大寺の重源により社殿が造替され、その社殿は1330(元徳2)年に炎上。その後14世紀後半に大内氏が再建したが、1526(大永6)年に再度焼失し、これも再建、修造された。さらに1789(寛政元)年萩(長州)藩7代藩主毛利重就により造替されたものの、1952(昭和27)年に三度炎上してしまった。現在の社殿の主なものは1963(昭和38)年までに建立されたもの。
*7 歴史館(宝物殿):国指定の重要文化財9点をはじめ多数の社宝を収蔵展示。とくに鎌倉時代に制作された全6巻の絵巻「紙本著色松崎天神縁起絵巻 箱入」は、華麗な色彩と的確な描写で必見。入館有料。
関連リンク | 防府天満宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
防府天満宮(WEBサイト) 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 土師氏 山口県文書館編修「防長風土注進案 第9巻」1983年 73/388 国立国会図書館デジタルコレクション 山口県教育会編「山口県百科事典」1982年 386/561 国立国会図書館デジタルコレクション |
2025年03月現在
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