錦帯橋きんたいきょう

JR山陽本線岩国駅の西約5km、JR山陽新幹線新岩国駅からも錦川沿いに約5km、錦川の清流に架かる5連の木造アーチ橋が錦帯橋*である。岩国城や吉川家の館がある横山と町方の中心である錦見をつないでいた。5連橋のうち、両端は柱橋、中央部の3連がアーチ橋で、圧力が加わると橋の強度が増すという構造になっている。
 この橋は、1673(延宝元)年、たびたびの洪水に悩んだ岩国藩3代藩主吉川広嘉*によって創建された。翌年の洪水で流失の憂き目にあったが、これをすぐに再建した。以後約10~20年ごとに各々の反り橋を修復と架け替えを重ねながら、1950(昭和25)年の台風で流失するまで人々の往来を支え続けた。現在の橋は、1953(昭和28)年に再建され、さらに2004(平成16)年に架け替えが行われたもの。全長193.3m、幅5m(有効幅員4.2m)、使用樹種はヒノキ、ケヤキ、マツ、ヒバ、クリ、カシ 。
 錦帯橋の上下流にはサクラの並木があり、サクラの名所としても知られる。
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みどころ

江戸時代から、すでに全国的な名所と知られ、葛飾北斎をはじめ、多くの浮世絵の題材になっている。また、江戸後期の文人大田南畝(蜀山人)は長崎からの帰り道にこの錦帯橋に立ち寄り「橋臺の石をくみ(組)たる所かど(角)ありて、十露盤(そろばん)のたまに似たれば、俗にそろばん橋ともいへり…中略…河原におりたちて橋の下より仰ぎ見れば、橋の上の人馬のかよう(通)さま雲のかけはし(懸け橋)かとうたが(疑)ふ」と記している。
 橋のみどころは、確かに橋の上から錦川の清流や緑豊かな城山、岩国山を眺め、春には土手のサクラ、秋には紅葉を楽しむのもよいが、大田南畝のように河原に降り、橋脚の下から見上げてみるのも一興だ。そこからは木組みの見事さを目の当たりにすることができる。
 また、町方の錦見から橋を渡った横山には、岩国藩主だった吉川家に関する史跡、史料館などがある吉香公園や岩国城跡に登るロープウェーの山麓駅があり、ここで、錦帯橋を架け、保全してきた吉川家の歴史を振り返るのもよいだろう。
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補足情報

*錦帯橋:錦帯橋の名は、当初は「岩国大橋」と称されたといわれ、その後も「凌雲橋」、「五竜橋」、「帯雲橋」、「算盤橋」など、複数の呼称があった。「錦帯橋」という呼び名が一般的になったのは、安永年間(1772~1780)とされ、公式名称として認定されたのは、明治維新後であった。
*吉川広嘉:吉川家は周防国岩国藩の藩主。藤原南家につながりがあるとされ、12世紀後半、始祖経義が駿河の入江吉川(静岡県静岡市清水区)に居を構えたのが始まりと伝わる。4代経光が承久の乱(1221年)で戦功があり、安芸の大朝之庄(広島県北広島町)の地頭職に就いた。13代元経に至り、毛利氏と縁戚関係を結び、15代目に毛利元就の次男元春を養子に迎え、毛利宗家を支えた。豊臣政権下では中国地方で14万石を拝領したが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利家の防長2ヶ国への減封のあおりを受け、周防玖珂郡・大島郡の一部3万石(のちに実質6万石)とされた。初代藩主広家は本拠地を岩国とし岩国城を築き、明治維新まで統治した。なお、錦帯橋を造った広嘉は吉川家19代当主・岩国藩3代藩主である。

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