赤間神宮あかまじんぐう

赤間神宮 内の資源

JR山陽本線下関駅から海岸沿いに北東へ約3km、関門海峡大橋の手前にある。壇ノ浦の戦い*に敗れ、二位ノ尼に抱かれ8歳で入水した安徳天皇を祀る神社。安徳天皇*はこの地にあった阿弥陀寺境内に埋葬され、1191( 建久2)年には、朝廷の命によって御陵上に御影堂を建立し勅願寺とした。この阿弥陀寺が、明治政府による神仏分離政策によって赤間神宮となった。神宮名の「赤間」はかつて下関が「赤間関」と称されたことによる。
 社殿は第2次世界大戦により戦災に遭い、その後に再建されたもの。海に面した参道の石段上には朱塗の竜宮造の水天門*、それをくぐると紅石山を背に大安殿、神殿が建ち、こちらも朱塗のため周囲の緑の中に鮮やかさが際立つ。境内には、長門本平家物語などの神宝を所蔵する宝物殿、平家一門を祭る七盛塚*、耳なし芳一像があがり、境内に隣接して安徳天皇御陵がある。
 年中行事としては、安徳天皇を偲ぶ先帝祭(5月2~4日)が知られている。
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みどころ

関門海峡に沿って走る国道9号線から見上げると、紅石山の鬱蒼たる緑を背景に水天門の楼閣の赤と門脚の白壁が際立ち、安徳天皇の慰霊のために建立されたとはいえ、戦いに敗れた平家の一族が、戦いの場であった壇ノ浦を見つめ、その無念さを燃え上がらせているようでもあり、壮観。それに対し、隣地にある安徳天皇陵は、質素ながら、風格ある白木の門扉と白壁が、静かに眠る幼き天皇を象徴しているようにも見える。境内を巡りながら、また、関門海峡を眺望しながら源平の時代に思いを馳せるのには格好のところだ。
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補足情報

*壇ノ浦の戦い:屋島の戦に敗れ海路を落ちた平家は、1185(文治元)年3月24日未明、長門彦島に拠り、追う源氏は干珠島に拠って、壇ノ浦沖合で合戦が始められた。平家は平宗盛を総大将とする500余艘、源氏は源義経の率いる840余艘。はじめは平家が優勢であったが、潮が西流に変わるや形勢は一変し、その日の夕刻に勝敗が決した。ここに栄華を誇った平家は滅亡し、かわって歴史は鎌倉幕府の手に移っていく。
*安徳天皇:1178(治承2)~1185(文治元)年。第81代天皇。在位は1180~1185年。高倉天皇の第一子で母親は平清盛の娘徳子(建礼門院)。源義仲の入京に伴い西海に遁れ、義経などの源氏軍に追われ、最後は壇ノ浦で入水。
*水天門:1958(昭和33)年にこの門が建立されたのに際し、思想家徳富蘇峯が「玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり」としたという。
*平家七盛塚:赤間神宮境内。平家一門の14基の供養塚。無数の五輪塔もあり、耳なし芳一が琵琶を吟じた場所という。

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