大山寺
大山寺は鳥取県西伯郡大山町、伯耆大山の北西斜面にある天台宗別格本山の寺であり、高野山金剛寺・比叡山延暦寺と並ぶ著名な山岳寺院である。米子道米子ICより県道24号線(大山観光道路)経由、大山寺集落・ナショナルパークセンター駐車場まで約15分。ここは博労座と呼ばれ、昭和初期まで牛馬市が立っていた歴史がある。ここから大山寺参道を徒歩約15分で大山寺本堂となる。
大山は奈良時代に編纂された出雲国風土記には大神岳(おおかみのたけ)と記されているように古くから山岳信仰の対象であり、大山寺は718(養老2)年、金蓮上人*により地蔵菩薩を祀る修験道場として開山したと伝えられている。860(貞観7)年に天台宗となった。平安時代には神仏習合により山岳信仰と仏教の融合が進み、大山寺は現在の「大神山神社奥宮」を本殿権現社とし、大智明権現(地蔵菩薩)を祀るようになった。鎌倉・室町時代の大山寺は多くの荘園と100を越える寺院、3000人以上の僧兵を持つ強大な勢力を誇り、1333(元弘3)年に隠岐を脱出した後醍醐天皇が大山山麓にある船上山で兵を挙げた時にも援軍として重要な役割を果たしている。
明治初期の廃仏毀釈政策により大山寺の号は一旦廃されたが1903(明治36)年に復活している。しかし、かつての本殿は現在の「大神山神社奥宮」となり、元の大日堂が「大山寺」の本堂となっている。また、最盛期は3塔*・42院あったと言われる堂・支院も10坊余りが現存するだけである。本堂は火災による焼失を経て1951(昭和26)年に再建されたもの。2016(平成28)年に鐘楼とともに国の登録有形文化財となっている。
大山に現存する寺社・僧坊のなかで最古のものが1552(享禄21)年に再建された阿弥陀堂である。中に安置されている丈六の木造阿弥陀如来は、1131(天承元)年・大仏師良圓の作で阿弥陀堂本体と共に国の重要文化財に指定されている。
大山寺(大神山神社含む)の旧境内は大山山麓の東西1.4kmに広がっており、そこには160箇所に及ぶ寺院・僧院の跡が確認されている。これらは2016(平成28)年に国の史跡に指定されている。大山寺は中国三十三観音霊場*の二十九番札所となっている。
大山は奈良時代に編纂された出雲国風土記には大神岳(おおかみのたけ)と記されているように古くから山岳信仰の対象であり、大山寺は718(養老2)年、金蓮上人*により地蔵菩薩を祀る修験道場として開山したと伝えられている。860(貞観7)年に天台宗となった。平安時代には神仏習合により山岳信仰と仏教の融合が進み、大山寺は現在の「大神山神社奥宮」を本殿権現社とし、大智明権現(地蔵菩薩)を祀るようになった。鎌倉・室町時代の大山寺は多くの荘園と100を越える寺院、3000人以上の僧兵を持つ強大な勢力を誇り、1333(元弘3)年に隠岐を脱出した後醍醐天皇が大山山麓にある船上山で兵を挙げた時にも援軍として重要な役割を果たしている。
明治初期の廃仏毀釈政策により大山寺の号は一旦廃されたが1903(明治36)年に復活している。しかし、かつての本殿は現在の「大神山神社奥宮」となり、元の大日堂が「大山寺」の本堂となっている。また、最盛期は3塔*・42院あったと言われる堂・支院も10坊余りが現存するだけである。本堂は火災による焼失を経て1951(昭和26)年に再建されたもの。2016(平成28)年に鐘楼とともに国の登録有形文化財となっている。
大山に現存する寺社・僧坊のなかで最古のものが1552(享禄21)年に再建された阿弥陀堂である。中に安置されている丈六の木造阿弥陀如来は、1131(天承元)年・大仏師良圓の作で阿弥陀堂本体と共に国の重要文化財に指定されている。
大山寺(大神山神社含む)の旧境内は大山山麓の東西1.4kmに広がっており、そこには160箇所に及ぶ寺院・僧院の跡が確認されている。これらは2016(平成28)年に国の史跡に指定されている。大山寺は中国三十三観音霊場*の二十九番札所となっている。
みどころ
大山寺の境内は、山岳修行から発達したことからわかるように標高750mの深遠な自然林の中に広がっており、全域が大山隠岐国立公園内にある。
参拝の出発点となる大山寺集落・ナショナルパークセンターから両側に土産品店・宿坊旅館が並ぶ参道を15分ほど登ると、大神山神社奥宮との分岐、そこからから山門、石段を経て大山寺本堂となる。本堂自体は昭和の建築であるが寺宝には奈良時代の金銅仏や鉄製厨子等の国の重要文化財が多数あり、これらは参道に面した大山寺宝物館「霊宝閣」で見ることができる。
もう一つの見どころとなる阿弥陀堂は本堂からは徒歩20分、ナショナルパークセンターから大山寺橋を渡って徒歩30分弱、いずれも鬱蒼とした杉林の中に続く苔むした石段、土の小道を辿っていく。大山はかつて100を越える僧坊があったと言われる。ナショナルパークセンターから阿弥陀堂に至る古い参道沿いは、この僧坊・支院が集まっていた地区であり、現在でも洞明院、圓流院、金剛院が静かに佇んでいる。さらに上がっていくと、かつての僧坊跡の石垣、お堂の跡などが苔むした姿を見せており、往時の繁栄を偲ぶことができる。
また、御本尊が地蔵菩薩のため、参道の各所に石のお地蔵さまを見ることができる。さらに地蔵菩薩は平安時代以降、牛馬の守り神であるという信仰があったため、多くの人々が牛馬を連れて大山詣でを行うようになり、それに伴い大山寺の門前では牛馬市が開催されるようになった。この牛馬市は江戸時代から明治時代かけて日本最大の牛馬市に発展し、大山へと続く大山道も整備されて宿場町も繁栄した。このような独特の文化的背景が2016(平成28)年、文化庁による日本遺産「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」として認定されている。
この地蔵菩薩による牛馬の健康祈願の象徴として大山寺本堂近くに鎮座しているのが「宝牛」像である。これは一生を働いて終えた牛の霊を慰めるために、形見となった鼻ぐりの銅輪を集めて鋳造、寄進されたものである。
参拝の出発点となる大山寺集落・ナショナルパークセンターから両側に土産品店・宿坊旅館が並ぶ参道を15分ほど登ると、大神山神社奥宮との分岐、そこからから山門、石段を経て大山寺本堂となる。本堂自体は昭和の建築であるが寺宝には奈良時代の金銅仏や鉄製厨子等の国の重要文化財が多数あり、これらは参道に面した大山寺宝物館「霊宝閣」で見ることができる。
もう一つの見どころとなる阿弥陀堂は本堂からは徒歩20分、ナショナルパークセンターから大山寺橋を渡って徒歩30分弱、いずれも鬱蒼とした杉林の中に続く苔むした石段、土の小道を辿っていく。大山はかつて100を越える僧坊があったと言われる。ナショナルパークセンターから阿弥陀堂に至る古い参道沿いは、この僧坊・支院が集まっていた地区であり、現在でも洞明院、圓流院、金剛院が静かに佇んでいる。さらに上がっていくと、かつての僧坊跡の石垣、お堂の跡などが苔むした姿を見せており、往時の繁栄を偲ぶことができる。
また、御本尊が地蔵菩薩のため、参道の各所に石のお地蔵さまを見ることができる。さらに地蔵菩薩は平安時代以降、牛馬の守り神であるという信仰があったため、多くの人々が牛馬を連れて大山詣でを行うようになり、それに伴い大山寺の門前では牛馬市が開催されるようになった。この牛馬市は江戸時代から明治時代かけて日本最大の牛馬市に発展し、大山へと続く大山道も整備されて宿場町も繁栄した。このような独特の文化的背景が2016(平成28)年、文化庁による日本遺産「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」として認定されている。
この地蔵菩薩による牛馬の健康祈願の象徴として大山寺本堂近くに鎮座しているのが「宝牛」像である。これは一生を働いて終えた牛の霊を慰めるために、形見となった鼻ぐりの銅輪を集めて鋳造、寄進されたものである。
補足情報
*金蓮上人:1325(正中2)年~1330(元徳元)年に記された大山寺縁起に登場する大山寺の開祖である。
*3塔:大山寺は3つの寺院の集合体であった。大山寺集落に中門院、南光河原両側に南光院、阿弥陀堂を中心にした西明院に分かれていた。
*中国三十三観音霊場:第一番札所岡山市西大寺に始まり、第三十三番札所鳥取市大雲院にて巡礼満願を達成する霊場で、岡山・広島・山口・島根・鳥取の中国五県にまたがるものである。開創は新しいが、自然の風光に富んだ旅情豊かな各地を結ぶ巡拝路は、観光を兼ねた巡礼の多い現代にふさわしい。
*3塔:大山寺は3つの寺院の集合体であった。大山寺集落に中門院、南光河原両側に南光院、阿弥陀堂を中心にした西明院に分かれていた。
*中国三十三観音霊場:第一番札所岡山市西大寺に始まり、第三十三番札所鳥取市大雲院にて巡礼満願を達成する霊場で、岡山・広島・山口・島根・鳥取の中国五県にまたがるものである。開創は新しいが、自然の風光に富んだ旅情豊かな各地を結ぶ巡拝路は、観光を兼ねた巡礼の多い現代にふさわしい。
関連リンク | 天台宗別格本山 角磬山 大山寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
天台宗別格本山 角磬山 大山寺(WEBサイト) 日本遺産「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」(一般社団法人大山観光局)(WEBサイト) 「鳥取県の歴史散歩」山川出版社 鳥取県の歴史散歩編集委員会編 |
2024年07月現在
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