大和三山やまとさんざん

香具山(かぐやま。天香久山とも)・耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)の三山をいう。標高約140~200mの低い山で、奈良盆地の南部に三角形を作るように並び、そのほぼ中心に藤原宮跡が位置する。奈良盆地の各所から眺められ、緑したたる叙情的な印象が、万葉集*1のよい題材に選ばれてきた。「続日本紀」によると、708(和銅元)年の「平城遷都詔」では、平城宮の立地選定にあたっては、「三山作鎮」*2(三山鎮めをなし)が選地の条件のひとつとされた。大和三山に囲まれた藤原宮も同様だったと考えられている。
 香具山は標高152.4m。耳成山と畝傍山が火山(死火山)なのに対し、多武峰から延びる尾根が浸食されたもので、山というより丘に近い。万葉集では舒明天皇の「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば  国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国 は」(大和には多くの山々が あるが、その中でもすべてが整ってよい山である香具山に登って国見をすると、広い平野には、ここかしこからかまどの煙が立ち登り、埴安の池の広い水の面には、鷗がそこここに舞い立っている。本当によい国である、この大和の国は)と、香具山からの国見の歌が収載されている。山名に唯一「天」が付くように、天上の山*3が降ったものと信じられ、古代祭祀の場所でもあった。北西麓には万葉集にも歌われている有名な埴安の池*4があったという。JR桜井線(万葉まほろば線)香久山駅から南へ約2km、近鉄橿原線畝傍御陵前駅から東へ約2.2km。
 耳成山は標高139.7mで、平地の中にそびえる円錐形のすっきりとした姿をどの方向からも見ることができる。万葉集では「耳梨山」と記され、出っ張りや余分なところがないことから、この山名が付けられたとされている。中腹に延喜式の式内社耳成山口神社があり、南麓には円錐形の山を映す池を抱える耳成山公園がある。万葉集には「無耳の池し恨めし 吾妹子が来つつ潜かば 水は涸れなむ」(耳無の池こそは恨めしい。 吾がいとしい 娘子が来て身を投げたならば、水は涸れてほしいものだに)と、詠み人知らずだが掲載されている。近鉄大阪線耳成駅から西へ約1km。
 畝傍山は三山中、もっとも高く標高199.2m。山麓には橿原神宮や神武天皇陵、延喜式の式内社畝火山口神社をはじめ古社や古寺跡が散在している。田の畝のようにうねった尾根であることからこの名がつけられたという。万葉集には「思ひあまりいたもすべ無み玉だすき畝火の山に吾標結ひつ」(詠人不詳。恋しくて仕方が無いので、自分は前後の分別も忘れて、身分の高い女をわがものとしたことである)と詠まれている。近鉄畝傍御陵前駅から西へ約1km。
 三山とも山頂までの散策路が整備されている。
(*万葉集の現代語訳は佐佐木信綱による)
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みどころ

大和三山を見渡すのには明日香村にある甘樫丘の山頂展望台からがよい。北に耳成山の円錐形の美しい山容が藤原宮跡越しに見え、その右手前にはこんもりとした森に包まれた香具山が横に少し長く延び、左手には橿原市街のビルの上に台形状の畝傍山が見える。また、平地からの眺望では藤原宮跡の大極殿基壇跡の南側から北を見ると、正面に耳成山、東に香具山、西に畝傍山を望むことができる。平城宮の立地選定にあたっての「三山作鎮」と同様に、その前に造営された藤原宮でも、このことが重要な選定条件だったという。このため、藤原宮跡のすぐ東側にある香具山について、藤原京を完成させた持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白たへの衣ほしたり天の香具山」(いつの間にか春が過ぎて、夏が来たそうな。皇居から見える青々とした香具山に、白い衣が干してあることよ)の歌は実景ともいわれるが、天皇家にとって神聖な山と祭祀儀礼時の斎服を詠み込んだものともされている。
 このほか奈良盆地の各地から三山の姿を目にすることはできるが、三山とも山頂からの眺望は木々が繁茂しているため、あまり多くは期待できない。
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補足情報

*1 万葉集:飛鳥宮から藤原宮に遷った際に万葉集所載「藤原宮の御井の歌」(詠人不詳)のなかで、天皇が「埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に春山と 繁さび立てり  畝火の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳無の 青すが山は 背面の 大御門に宜しなへ 神さび立てり」(埴安の池の堤の上に折々お立ちになって四方を御覧になると、大和の青々と茂った香具山は、東の御門のところにいかにも春の山らしく木々が生い繁っている。この瑞々しい畝傍山は、西の御門のところに如何にも山らしく立っている。青々と菅の生い茂っている耳無山は、北の御門のところに如何にも相応わしく 神々しく立っている)と歌われ、藤原宮にとって重要な意味を持つ山だとしている。
 また、万葉集には「香具山は 畝火ををおしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくあるらし 古いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを 争ふらしき」(香具山は畝火山を愛して、耳梨山と互に争った。神代からこの通りなのであろう、昔もそうであったからこそ、今の世の人も妻争をするのであろう)と三山の妻争いの伝説によった中大兄皇子(天智天皇)の歌も載せられている。
*2 「三山作鎮」:「平城遷都詔」では「方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎮。龜筮並従。宜建都邑」(平城の地は四神[=禽 青龍・白虎・朱雀・玄武]の立地に適しており、三山が鎮(鎮護)をなし、亀の甲を焼いて占った結果に従う)としている。
*3 天上の山:奈良時代に編纂された「風土記」には「天の上に山あり、分かれて地に堕ちき。一片は伊豫の國の天山(あめやま)と爲り、一片は大和の國の香山(かぐやま)と爲りき」と記載されていたという。
*4 埴安の池:はにやすのいけ。「日本書紀」に神武天皇が大和の地に入った時、在地の勢力と戦うために「宜(む)べ今當(まさ)に天香山の埴(はにつち)を取り、以て天平瓫(てんぴょうのいらか)を造りて、天社國社の神を祭ひて、然して後に虜を撃ちたまはば、即ち除ひ易けむ」(天の香山の土を取って、平瓮をつくり、天神・国神の神社を祭り、その後に敵を撃てば、万事好都合に運ぶ)との夢告と臣下の助言があったと記されていることから、この地名になったとも言われている。また、「万葉集」には「藤原宮の御井の歌」(*1を参照)のほか、柿本人麻呂が高市皇子(天武天皇の第1皇子)を偲んだ歌「はにやすの 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人は惑ふ」(埴安の池の堤に取り囲まれた池の水は、流れ行く先も分らぬが、ちょうど其のように、これから先の行くべき方向も分らないで、舎人たちは途方にくれている)にもこの地名が詠み込まれている。(*万葉集の現代語訳は佐佐木信綱による)

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