三輪そうめんみわそうめん

奈良盆地の南東部、桜井市三輪地区を中心に製造されている手延べそうめんである「三輪そうめん」は、喉越しなめらかで舌ざわりがよく、コシがしっかりしており煮くずれしにくいのが特徴だとして、全国に知られている。
 「三輪そうめん」は、三輪山(大神)信仰に結び付けられ、宝亀年間に神主狭井久佐の次男、穀主(たねぬし)が、この地に適した小麦の栽培を行い、三輪山の清流でそうめん(素麺)*1を作ったのが始まりだと言い伝えられている。この伝承は、この地が扇状地で小麦作りに適した水の浸透がよく乾燥する土質であること、春日断層崖より流れの速い沢水の量が十分確保でき小麦をひく水車の設置にも絶好の地理的条件であったこと、冬季の晴天と冷え込みという気候条件であることなど、そうめん作りの好適地であったことが背景となっている。
 中国から渡来したとされるそうめん(素麺)の製造方法、形状は、時代とともに変化したものの、「三輪そうめん」は、室町時代には、すでに産地として知られており、興福寺の塔頭多聞院学侶らの日記「多聞院日記」でも、1569(永禄12)年7月7日の条に「節供如常、麺十四ワ入了、十二ワツツ 三ワ(輪)ノウ田村ニテ買之」とあり、供物として購入したことが記録されている。さらに江戸時代には、お伊勢参りや長谷詣などが盛んになるつれ、全国的にその名が知られるようになり、その製法が播州龍野や小豆島などに伝えられた。1712(正徳2)年に発刊された百科事典「和漢三才図会」では、現在と同様の製法が記載されており、産地として「三輪」の名も挙げられている。また、1754(宝暦4)年に発行された「日本山海名物図會」にも、麺を干している絵図とともに「大和三輪索(素)麺  名物なり 細きこと糸のごとく、白きことゆきのごとし。ゆでてふとらず、余国より出ずるそうめんの及ぶ所にあらず」と称賛し、さらに「参詣の人おほきゆへ三輪の町繁昌なり 旅人をとむるはたごやにも 名物なりとて そうめんにてもてなす也」とまで記している。明治末から昭和初期の最盛期には、製造事業者は300軒を超えていたという。現在は、「手延べそうめん」の生産量としては、兵庫、長崎、香川各県には届かないものの、官民をあげて、品質基準を定め、技術的伝承、原料を含めトレサビリティの確保などの品質の維持向上と地理的表示産品として「三輪そうめん」のブランドの浸透に努めている。
#

みどころ

谷崎潤一郎は「陰翳礼賛」のなかで、「柿の葉寿司」を絶賛しているが、「三輪そうめん」については、昭和初期に「池田栄三郎商店三輪素麺の栞」に「わきもこ(吾妹子・妻、恋人)か箸にかけたる素麺の 糸白妙に夏は来にけり」と「千早ふる神の緒環(おだまき・糸によった麻を丸く巻きつけたもの)しのぶとて 素麺晒す三輪の里人」と2首の歌を寄せ、「三輪そうめん」も愛していたことがわかる。
 谷崎も詠んでいるように「三輪そうめん」は美しいほどの麺の白さが特色だが、もちろん、食味、食感として、喉越しなめらかで舌ざわりがよく、コシがしっかりしていることなどが、その名を知らしめている。これについては、地元桜井市の出身で考古学者の樋口清之は「巻向川と初瀬川にはさまれたこの地は、瑞垣と呼ばれた歴史の古い場所。ここでは、グルテン化に優れた小麦、つまり細く長く弾力を持って延びる、そうめん作りに最適の小麦が取れたという。また、三輪山ろくからわき出る水には、少量のラジウムやゲルマニウムが含まれており、不老長寿の水とも信じられていた」と、その食味、食感が生まれる理由を挙げている。
 「三輪そうめん」は全国各地で食べることはできるが、桜井市内の多くの食事処で「三輪そうめん」を賞味できるので、ぜひ、本場で味わってもらいたい。
#

補足情報

*1 そうめん(素麺):わが国でも古くから食されていたと思われ、すでに8世紀の「正倉院文書」にも、小麦粉をこねた「索餅(さくべい・むぎなわ)」の記載があり、中国渡来の食べ物で、儀式などに供されていた。10世紀前半の「延喜式」においても、皇族や僧侶たちが、索餅を酢や塩などで食したとの記録が残されている。鎌倉期には中国から植物油を塗って麺を細長くする手法が伝えられ、南北朝時代には、「索餅」以外にも「索麺」「素麺」も表記がみられるようになり、現在に近い製造方法や形状が整ったといわれている。

あわせて行きたい