天神祭(大阪天満宮)
大阪天満宮の夏の例大祭。祭りの起源については、社伝では同社の創祀から2年後の951(天暦5)年に社前から神鉾を流し、流れ着いた岸に御旅所を仮設し、そこに御神霊が渡御したことに始まるとしている。その後、船の数が多くなり、風流行事の影響を受け華やかな飾りつけがなされるようになった。ことに、大阪が「天下の台所」として町人文化が花開いた元禄期(1688~1704年)から享保期(1716~1736年)にかけては、祭りは隆盛を迎え、より一層華やかになったという。幕末や、二度の世界大戦、災害になどにより、祭りの中断や一部行事の断絶、変遷などもあったが、その都度、氏子や大阪市民の力で継承・発展してきた。
祭りは6月下旬から7月25日まで諸行事があるが、メインの祭儀は、7月24日の宵宮と25日の本宮である。24日には、本殿での宵宮祭の後、神鉾を流して御旅所を定めたという故事に則った「鉾流し神事」*1、獅子舞や地車などの巡行が行われる。25日には、本殿での本宮祭の後、御鳳輦を中心に、鳳神輿・玉神輿・御羽車や、氏子たち3,000人による「陸渡御(りくとぎょ)」が発進する。その後、陸渡御列の一行は天神橋辺りで、御神霊の乗る「奉安船」と、数十の「供奉船」に乗り大川を航行する「船渡御」*2となる。一方、上流の飛翔橋辺りからは、船渡御を迎える「奉拝船」数十艘が下航する。大川の下流と上流から航行する約100艘の船列の上空には、船渡御を奉祝する3,000発の「奉納花火」が打ち上げられ、川岸や橋上は130万人もの群衆で溢れる。
祭りは6月下旬から7月25日まで諸行事があるが、メインの祭儀は、7月24日の宵宮と25日の本宮である。24日には、本殿での宵宮祭の後、神鉾を流して御旅所を定めたという故事に則った「鉾流し神事」*1、獅子舞や地車などの巡行が行われる。25日には、本殿での本宮祭の後、御鳳輦を中心に、鳳神輿・玉神輿・御羽車や、氏子たち3,000人による「陸渡御(りくとぎょ)」が発進する。その後、陸渡御列の一行は天神橋辺りで、御神霊の乗る「奉安船」と、数十の「供奉船」に乗り大川を航行する「船渡御」*2となる。一方、上流の飛翔橋辺りからは、船渡御を迎える「奉拝船」数十艘が下航する。大川の下流と上流から航行する約100艘の船列の上空には、船渡御を奉祝する3,000発の「奉納花火」が打ち上げられ、川岸や橋上は130万人もの群衆で溢れる。

みどころ
提灯やかがり火が水面に映え、花火があがり、水都大阪の夏の夜は華麗に彩られ、大阪市中が湧き立つ。まさに大阪の夏祭りを代表する祭りのひとつである。江戸時代の後期の「摂津名所図会」では氏子は「みやびかに船を飾りて、一様の浴衣を着し、櫓拍子揃へて難波橋に到り、種々の船印に吹きぬきを翻し、飾人形一様の浴衣帷子に、太鼓を拍(う)つて踊り狂ふ…中略…祭礼の船行列、巍々玲瓏として浪花の美観なり」と、その華やかさぶりを記している。現在もこれと同様に華やかな祭が継承されている。「船渡御」の観覧は大川の河岸の各所で可能だが、同祭には、100万人ほどの見物客が集まり混雑が予想されるので、ゆっくり観覧をしたいという人向きには源八橋から天満橋に至る大川の両岸数ヵ所に有料の特設観覧席も用意されている。

補足情報
*1 鉾流し神事:天神祭の前儀にあたる神事。社伝によれば、949(天暦3)年に「天満天神(現在の大阪天満宮)」が創祀された翌々年に始まったという。社頭の浜から「神鉾」を流して、その漂着地に御旅所を仮設し、そこに天神様が渡御されるのが天神祭である。
しかし、江戸時代前期に大阪の町並みが発展すると、神鉾の漂着地辺りにも家が建て込んでいることが多くなったため鉾流し神事は中止され、代わりに雑喉場(現・西区京町堀)に常設の御旅所が設けられた。まもなく1668(寛文8)年には、西方の木津川沿いの戎島(現・西区川口)に御旅所は移転し、江戸時代を通じて、毎年の天神祭には戎島御旅所に御神霊が渡御した。さらに1871(明治4)年には木津川下流の松島(現・西区千代崎)に移転し、現在に至っている。
この間、鉾流し神事は中止されたままだったが、1930(昭和5)年に歌舞伎作者の食満南北の提唱により鉾流し神事は再興され、現在は7月24日の朝に若松町浜(現・北区西天満)で斎行されている。
*2 船渡御:船渡御については、行宮(御旅所)の決め方の変遷や固定化、大川(旧淀川)などの流路の状況の変化及び戦争などの混乱期などでの中断・巡行コースの変更など、諸事困難はあったものの、氏子や市民の尽力で継承してきた。また、「府社天満宮神事要録」によると、隆盛を極めた江戸時代においては、貞享年間(1684~1688年)では「沿岸諸藩の蔵屋敷よりは、定紋うちたる献燈を掲げ、棧敷を組み…中略…無数の燈火は浪間に反映して美観を呈」し、元禄年間(1688~1704年)には「小倉藩侯小笠原家より『献茶船』を特設」したり、享保年間(1716~1736年)には「『人形浄瑠璃』の発達に刺激せられ『御迎人形』の出現」などがあったとしており、現在以上に華やかな「船渡御」だったことが窺える。
しかし、江戸時代前期に大阪の町並みが発展すると、神鉾の漂着地辺りにも家が建て込んでいることが多くなったため鉾流し神事は中止され、代わりに雑喉場(現・西区京町堀)に常設の御旅所が設けられた。まもなく1668(寛文8)年には、西方の木津川沿いの戎島(現・西区川口)に御旅所は移転し、江戸時代を通じて、毎年の天神祭には戎島御旅所に御神霊が渡御した。さらに1871(明治4)年には木津川下流の松島(現・西区千代崎)に移転し、現在に至っている。
この間、鉾流し神事は中止されたままだったが、1930(昭和5)年に歌舞伎作者の食満南北の提唱により鉾流し神事は再興され、現在は7月24日の朝に若松町浜(現・北区西天満)で斎行されている。
*2 船渡御:船渡御については、行宮(御旅所)の決め方の変遷や固定化、大川(旧淀川)などの流路の状況の変化及び戦争などの混乱期などでの中断・巡行コースの変更など、諸事困難はあったものの、氏子や市民の尽力で継承してきた。また、「府社天満宮神事要録」によると、隆盛を極めた江戸時代においては、貞享年間(1684~1688年)では「沿岸諸藩の蔵屋敷よりは、定紋うちたる献燈を掲げ、棧敷を組み…中略…無数の燈火は浪間に反映して美観を呈」し、元禄年間(1688~1704年)には「小倉藩侯小笠原家より『献茶船』を特設」したり、享保年間(1716~1736年)には「『人形浄瑠璃』の発達に刺激せられ『御迎人形』の出現」などがあったとしており、現在以上に華やかな「船渡御」だったことが窺える。
関連リンク | 大阪天満宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
大阪天満宮(WEBサイト) 天満宮「府社天満宮神事要録」昭和7年 17~23/52 国立国会図書館デジタルコレクション 「大日本名所図会 第1輯第5編 摂津名所図会 上巻 天満宮」240/380 国立国会図書館デジタルコレクション 大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館 |
2025年03月現在
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