大阪天満宮
大阪メトロ谷町線・堺筋線南森町から天神橋筋商店街を経て表大門まで南東へ約350m、JR東西線大阪天満宮駅から北門(大工門)まで南へ100mほどのところにあり、都心の商店街やビル街の中にある。重厚な表大門をくぐると都心としては広々とした境内で、正面には1845(弘化2)年再建の本社をはじめ社殿*1が建ち並ぶ。また、境内西側には、天満宮の創建前からあったとされ、菅原道真が左遷され太宰府に向かう途上に参拝したという大将軍社*2なども鎮座している。
社伝によると、村上天皇の勅願により、京都北野天満宮創建から2年後の949(天暦3)年に創祀されたと伝えられている。菅原道真公(天神様)を祀っている地が「天満」であることから「天満の天神さん」と親しまれ、武将から庶民まで幅広く信仰を集め、現代も学問・書道の神として受験期などには学生の参詣が多い。年中行事としては、大阪市中最大の祭事のひとつ天神祭(7月24・25日)が知られている。
社伝によると、村上天皇の勅願により、京都北野天満宮創建から2年後の949(天暦3)年に創祀されたと伝えられている。菅原道真公(天神様)を祀っている地が「天満」であることから「天満の天神さん」と親しまれ、武将から庶民まで幅広く信仰を集め、現代も学問・書道の神として受験期などには学生の参詣が多い。年中行事としては、大阪市中最大の祭事のひとつ天神祭(7月24・25日)が知られている。

みどころ
江戸時代後期の「摂津名所図会」によると「近年西の方に巍々たる封彊(どて)を築いて草木を植え、末社を遷すもあり、四時詣人多く、社内の市店・観物(みせもの)・軽口噺(かるくちばなし)・植木屋の鉢植・泉水の金魚・小山屋が料理、月毎の二十五日(縁日)の群参昼夜道に満てり」としており、大いに賑わっていたことが記されている。現在も、近隣はもちろん、外国人や遠方からの参拝客も数多く見られる。天満宮周辺は約2.8kmの長いアーケードで知られる天神橋筋商店街や落語の定席・天満天神繁昌亭など浪速の町人文化や活気を感じることができる場所で、天満宮がいかに大阪の人々に崇敬されてきたかが感じられる。

補足情報
*1 社殿:本社以外には、明治末から昭和初期に造立された神楽所、参集所、梅花殿などがある。
*2 大将軍社:伝承では同社は、孝徳天皇が650(白雉元)年に難波長柄豊碕宮を造営した際に、その西北に王城鎮護のために置いたとされる。
なお、表門を入って左手に「九月盡日(30日)陪天満天神祠。摂州」を詩題とする石碑が立てられているが、これは平安後期(11世紀後半)の文章博士藤原敦基、敦光兄弟による詩文で、このなかに「渡口社檀訪土民」(川の渡しのある場所に社殿があり地元の民が訪ねている)とし、これが天満天神だとされ、「叢祠基趾多經歳」(社殿の基礎が多くの歳を経ている)とも記している。これらみると、同社は、この地において地主神として古くから信仰されていたと考えられ、付近一帯は古くは大将軍の森(杜)と呼ばれたが、やがて天神の森と呼ばれるようになった。
*2 大将軍社:伝承では同社は、孝徳天皇が650(白雉元)年に難波長柄豊碕宮を造営した際に、その西北に王城鎮護のために置いたとされる。
なお、表門を入って左手に「九月盡日(30日)陪天満天神祠。摂州」を詩題とする石碑が立てられているが、これは平安後期(11世紀後半)の文章博士藤原敦基、敦光兄弟による詩文で、このなかに「渡口社檀訪土民」(川の渡しのある場所に社殿があり地元の民が訪ねている)とし、これが天満天神だとされ、「叢祠基趾多經歳」(社殿の基礎が多くの歳を経ている)とも記している。これらみると、同社は、この地において地主神として古くから信仰されていたと考えられ、付近一帯は古くは大将軍の森(杜)と呼ばれたが、やがて天神の森と呼ばれるようになった。
関連リンク | 大阪天満宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
大阪天満宮(WEBサイト) 「大阪府全志 巻之2」大正11年 543/665 国立国会図書館デジタルコレクション 大阪文化財ナビ 大阪天満宮(WEBサイト) 「大日本名所図会 第1輯第5編 摂津名所図会 上巻 天満宮」大正8年 240/380 国立国会図書館デジタルコレクション 「日本歴史地名大系 大阪天満宮」平凡社 |
2025年03月現在
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