四天王寺聖霊会
四天王寺の年間行事の中でももっとも大規模かつ重要な法会。聖徳太子の命日の4月22日に聖霊院太子殿から六時堂に太子像が遷され、六時堂とその前庭にある亀の池の上の石舞台には、四隅に巨大な赤い曼珠沙華を飾り、四天王寺一山式衆の四箇法要とともに舞楽が奉納される。まず、石舞台で聖徳太子始め諸仏を礼拝する声明の「惣礼伽陀(そうらいかだ)」に始まり、六時堂内や石舞台上での四箇法会儀式(唄・散華・梵音・錫杖)に織り交じりながら、「振鉾(えんぶ)」「蘇利古(そりこ)」「菩薩(ぽさつ)」「獅子」「迦陵頻(かりようびん)」「胡蝶」などの舞楽が舞われる。
聖徳太子は舞楽を仏教を広める手段として採用したが、四天王寺においては平安時代より継承されてきた舞楽を天王寺楽所*1の奏楽により奉納する。国の重要無形民俗文化財に指定されている。舞楽は6月に開催される「篝の舞楽」でも講堂前の前庭で奉納される。
なお、4月22日と各月の月命日(22日)においては 「太子忌」として、聖徳太子の一生を描いた絵伝*2を納める絵堂(太子殿の裏手)と中心伽藍が無料開放され、五重塔最上階回廊にも上がることができる。
聖徳太子は舞楽を仏教を広める手段として採用したが、四天王寺においては平安時代より継承されてきた舞楽を天王寺楽所*1の奏楽により奉納する。国の重要無形民俗文化財に指定されている。舞楽は6月に開催される「篝の舞楽」でも講堂前の前庭で奉納される。
なお、4月22日と各月の月命日(22日)においては 「太子忌」として、聖徳太子の一生を描いた絵伝*2を納める絵堂(太子殿の裏手)と中心伽藍が無料開放され、五重塔最上階回廊にも上がることができる。

みどころ
鎌倉時代末期成立の「徒然草」には「何事も邊(辺)土は陋(いや)しくかたくな(頑な)なれども、天王寺の舞樂のみ都にはぢず(恥じず)といへば、天王寺の伶(楽)人の申し侍りしは、當寺の樂はよく圖(図)を調べ合わて、物のね(音)のめでたくととの(整)ほり侍る事、外よりもすぐれたり。ゆえは太子の御時の圖(図)いまに侍るをはかせ(博士=音譜)とす」と記されており、この当時においても聖徳太子の時代からの雅楽をよく伝承し優れていると、推賞している。現在も、聖霊会での儀式や舞楽は古式に則り継承されており、華やかな色彩で飾れられた石舞台や六時堂での寺僧・楽人の所作、声明の響き、音曲、舞姿は、まさに時代を超え、心に染み入るものがある。

補足情報
*1 天王寺楽所:楽所(がくそ)は宮中における雅楽の演奏を担う楽人集団組織。天王寺楽所は、天王寺舞楽(四天王寺での法要に奉納される舞楽)を担う楽人集団のこと。ただ、応仁の乱(1467~1477)以降の戦乱期に宮中の雅楽が単独では維持できなくなり、天正期(16世紀半ば)に京都の大内楽所と四天王寺(天王寺楽所)と奈良興福寺(南都楽所)の三者が、三方楽所として宮中の奏演にも出仕した。天王寺楽所は、その性質上、野外奉納や参詣者の仏縁を深めることを目的としていたので、ダイナミックで明確な舞いぶりを受け継いできたといわれている。明治以降は、木津願泉寺の小野玄龍師より歴代有志の方々の手によって維持伝承されてきた。
*2 絵伝:現在は日本画家杉本健吉が1977(昭和52)年から6年の歳月をかけて描いた壁画で、絵堂に納められている。
*2 絵伝:現在は日本画家杉本健吉が1977(昭和52)年から6年の歳月をかけて描いた壁画で、絵堂に納められている。
関連リンク | 四天王寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
四天王寺(WEBサイト) 天王寺楽所(WEBサイト) 「文化遺産データーベース 聖霊会の舞楽」文化庁(WEBサイト) 「世界大百科事典 第2版 三方楽所」平凡社 「大日本名所図会 第1輯第5編摂津名所図会 摂津名所図会 上下巻 荒陵山四天王寺敬田院」100/380 国立国会図書館デジタルコレクション |
2025年03月現在
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