天龍寺
世界文化遺産。嵐電嵐山本線嵐山駅を下車すると正面すぐ北側に参道入口が見える。京都五山*の第1位という格式を誇った臨済宗天龍寺派の大本山である。度重なる火災で伽藍の大半は明治以降の再建だが、亀山を背景に法堂・大方丈・多宝殿が、また総門から法堂に至る参道の両脇に塔頭が整然と並ぶ。法堂の天井いっぱいに描かれた雲龍図*は、加山又造の筆による。大方丈西側には、曹源池を中心に、嵐山などを借景とする夢窓疎石作庭の池泉回遊式庭園が横に大きく広がる。庫裏の北方には後嵯峨・亀山天皇の御陵がある。
寺のあるあたり一帯は平安時代初め、嵯峨天皇皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)*が檀林寺(だんりんじ)を建立し、鎌倉時代には後嵯峨上皇が離宮亀山殿を営み、亀山上皇に引き継がれた。後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしている。1339(延元4)年、夢窓疎石*は足利尊氏に後醍醐天皇の霊と南北朝の戦乱の戦死者を慰める寺を創設するよう進言し、尊氏は疎石を開山として、亀山離宮を禅寺に改めて1345(康永4)年に天龍寺を建立した。その際、造営の費用獲得のため、元との貿易を再開し、天龍寺船を運航させている。当時天龍寺は帷子(かたびら)の辻から嵐山までをも含む広大な寺地を占め、室町幕府の庇護のもとに繫栄し、塔頭子院が150余院を数えるほどであった。しかし、応仁・文明の乱の兵火で全焼、室町幕府の衰亡とともに復興が進まず衰退。秀吉により寺地の寄進を受けて復興後も、焼亡、復興を繰り返し、幕末の禁門の変の際に長州藩が陣を敷いたために戦火でほとんどを焼失した。1899(明治32)年に大方丈、庫裏を再建、翌年には雲居庵禅堂(選仏場)を移築して法堂を復興、1935(昭和10)年に多宝殿が立ち、ほぼ現在の規模になった。
寺のあるあたり一帯は平安時代初め、嵯峨天皇皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)*が檀林寺(だんりんじ)を建立し、鎌倉時代には後嵯峨上皇が離宮亀山殿を営み、亀山上皇に引き継がれた。後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしている。1339(延元4)年、夢窓疎石*は足利尊氏に後醍醐天皇の霊と南北朝の戦乱の戦死者を慰める寺を創設するよう進言し、尊氏は疎石を開山として、亀山離宮を禅寺に改めて1345(康永4)年に天龍寺を建立した。その際、造営の費用獲得のため、元との貿易を再開し、天龍寺船を運航させている。当時天龍寺は帷子(かたびら)の辻から嵐山までをも含む広大な寺地を占め、室町幕府の庇護のもとに繫栄し、塔頭子院が150余院を数えるほどであった。しかし、応仁・文明の乱の兵火で全焼、室町幕府の衰亡とともに復興が進まず衰退。秀吉により寺地の寄進を受けて復興後も、焼亡、復興を繰り返し、幕末の禁門の変の際に長州藩が陣を敷いたために戦火でほとんどを焼失した。1899(明治32)年に大方丈、庫裏を再建、翌年には雲居庵禅堂(選仏場)を移築して法堂を復興、1935(昭和10)年に多宝殿が立ち、ほぼ現在の規模になった。

みどころ
勅使門は慶長年間(1596~1615)に御所に建てられ、江戸初期に移築されたとされる天龍寺最古の建築。安土桃山風の建築手法が見られる。法堂*天井には鈴木松年の雲龍図が描かれていたが、現在の龍は1997(平成9)年に加山又造が新たに描いたもの。龍の周りの二重円相は直径9m。大方丈には重要文化財の釈迦如来坐像を安置。襖絵の龍は、富岡鉄斎の孫弟子若狭物外(もつがい)作。多宝殿に上る廊下の右手にある茶室は、祥雲閣と甘雨亭。多宝殿には後醍醐天皇像を祀る。最大のみどころは、国史跡・国特別名勝の曹源池庭園*。州浜形の汀線をもつ池泉の中央奥の斜面に巨石を連ねた滝石組を築き、その前に自然石の橋を架け、滝石組の横には鯉魚石(りぎょせき)を配して「登龍門」*の故事になぞらえて「龍門瀑」を表している。池には出島を突き出し、浮石を設け、背後には嵐山や亀山を借景として取り込んで雄大な景観をつくる。春には多宝殿を囲むように枝垂桜やソメイヨシノが咲き乱れ、曹源池に映る紅葉もいい。塔頭の宝厳院*には、紅葉で名高い回遊式庭園の「獅子吼(ししく)の庭」がある。同じく弘源寺は、枯山水の「虎嘯(こしょう)の庭」や竹内栖鳳とその門下の絵で知られる。

補足情報
*京都五山制度:中世幕府が臨済宗寺院を統制するために設けた制度。中国南宋時代の五山官寺制度が鎌倉時代に伝わり、鎌倉五山が誕生。後に京都でも足利氏が臨済宗寺院を統制するために設けたのが京都五山で、5つの寺に最高の寺格が与えられ、その下に十刹、諸堂が列した。選定や順位に何度かの変遷があり、1386(至徳3)年、足利義満のときには、南禅寺を五山の上位に、1位天龍寺、2位相国寺、3位建仁寺、4位東福寺、5位万寿寺となった。万寿寺は、現在、東福寺の塔頭で非公開の寺院である。
*橘嘉智子:766~850年。才色兼備として知られ、檀林寺を建立したので檀林皇后と呼ばれる。橘氏子弟のために学館も創立。曹源池庭園は檀林寺の遺構を踏まえているのでは、ともいわれる。
*夢窓疎石:1275~1351年。南北朝時代の禅僧。臨済宗の地位を高め、作庭家としてもすぐれ、西芳寺・天龍寺・鎌倉瑞泉寺・山梨恵林寺などに名園を残す。嵐電嵐山駅東方、後醍醐天皇が疎石を開山として開いた臨川寺の開山堂は、その墓所の上に建てられているという。
*法堂:土・日曜・祝日(休止日あり)、春秋の特別公開期間などに公開。
*曹源池庭園:疎石がこの池の泥をあげた際に出た「曹源一滴」と記した石碑によって曹源池と命名されたという。
*登龍門:『後漢書』が典拠の語。龍門は中国の黄河上流の急流。この急流を登り切った鯉は龍となるとの伝えから、乗り越えれば立身出世ができる関門を指す。
*宝厳院:春秋に公開。
*橘嘉智子:766~850年。才色兼備として知られ、檀林寺を建立したので檀林皇后と呼ばれる。橘氏子弟のために学館も創立。曹源池庭園は檀林寺の遺構を踏まえているのでは、ともいわれる。
*夢窓疎石:1275~1351年。南北朝時代の禅僧。臨済宗の地位を高め、作庭家としてもすぐれ、西芳寺・天龍寺・鎌倉瑞泉寺・山梨恵林寺などに名園を残す。嵐電嵐山駅東方、後醍醐天皇が疎石を開山として開いた臨川寺の開山堂は、その墓所の上に建てられているという。
*法堂:土・日曜・祝日(休止日あり)、春秋の特別公開期間などに公開。
*曹源池庭園:疎石がこの池の泥をあげた際に出た「曹源一滴」と記した石碑によって曹源池と命名されたという。
*登龍門:『後漢書』が典拠の語。龍門は中国の黄河上流の急流。この急流を登り切った鯉は龍となるとの伝えから、乗り越えれば立身出世ができる関門を指す。
*宝厳院:春秋に公開。
関連リンク | 天龍寺(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
天龍寺(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 |
2025年05月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。