慈照寺(銀閣寺)じしょうじ(ぎんかくじ)

年間通して多くの観光客でにぎわう「哲学の道」の北端、銀閣寺橋を東に入ったところにある臨済宗相国寺派の寺。正しくは慈照寺といい、観音殿(銀閣)*のあることから一般に銀閣寺といわれる。北山文化を象徴する金閣寺に対し、室町時代後期の東山文化*を象徴する代表的寺院である。銀閣というものの銀箔貼りではなく、当初、上層の内外壁は黒漆塗りだったが、江戸時代には銀閣と呼ばれていたと考えられている。かつては広大な境内に12楼の風雅な建物があったと伝えるが、現在は観音殿(銀閣)と東求(とうぐ)堂*(ともに国宝)が当時の遺構として残っている。庭園*は東山文化を代表する名園として名高く、このほか、竹を組んだ参道の銀閣寺垣、市松模様の銀閣寺手水鉢、与謝蕪村・池大雅の作と伝える襖絵など見るべきものが多い。
 1473(文明5)年、将軍職を実子義尚(よしひさ)に譲った足利義政*は、祖父義満の北山殿(金閣)にならって1482(文明14)年この地に東山山荘を造営した。当時は応仁の乱の直後で、室町幕府は政治的にも経済的にも無力であったため工事は進まず、8年後に義政が死んだのちに完成。遺言によって禅院となり、義政の院号に因んで慈照院(翌年に慈照寺と改名)と称するようになった。相国寺に属した。室町時代末期には一時荒廃し、観音殿(銀閣)・東求堂以外の建物はそこなわれたが、寛永年間(1624~1644)に本堂(方丈)・書院・庫裏が再建され、現在のような寺観に復興した。
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みどころ

銀閣を特徴づけ、他の寺社では見られないのが、白砂で造形した銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台である。砂盛りは月待山に上る月を観賞するために作られたという説と、月の光を反射させて本堂を照らす役割があるという説の2つの説があるが、はっきりとした役割は分かっていない。いずれにせよ向月台、銀沙灘共に「月」に関係するものであることは間違いのないようで、ここから金閣寺=太陽、銀閣寺=月というイメージが生まれた。なお銀沙灘の灘とは中国の西湖を表しているとされ、銀沙灘や向月台に使用されている砂は「白川砂」と呼ばれる京都特産の砂である。この白川砂は光りの反射率が高く現代でいう間接照明の役割を果たしているとされる。向月台の高さは180cm、銀沙灘の高さは66cm。
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補足情報

*観音殿(銀閣):国宝。池を前に東面して立つ。室町時代の建築で、1489(長享3)年に上棟しているが完成年は明確でない。正面4間、側面3間、上下2層からなり、屋根は宝形造、杮葺きで、頂上に金銅製の鳳凰を置く。下層は心空殿といい書院造、上層は潮音閣といい漆塗の板壁に花頭窓を並べた唐様仏殿様式で、仏寺と住宅の折衷様式をなす。
*東山文化:室町幕府8代将軍足利義政が営んだ東山山荘を中心に生まれた。伝統的な公家文化と武家文化、五山の禅僧のもたらした宋文化、新興の庶民文化などを合わせた複合文化である。浄土への志向をもちながら、禅の幽玄を求め、主観性・象徴性が重んじられ、茶道・華道・庭園にいたるまで、独特な美意識を発達させた。
*東求堂:国宝。室町時代の建物。1486(文明18)年、義政の持仏堂として建てられた。西芳寺の西来堂を模したと伝えられ、南面して立つ軽快で優雅な書院建築である。約7mの方形で、単層、入母屋造、檜皮葺、内部は4室に分かれている。正面の部屋に仏壇を設け、脇には義政の木像を安置する。北東の部屋は同仁斎と呼ぶ4畳半の茶室だが、付書院・違い棚があり、書院間ともいわれる。16世紀に流行する4畳半の先駆をなすもので、書院茶の湯が草庵茶の湯に連続する流れに影響を与えた。
*庭園:月待山山麓に、面積約2万m2を占めていて、マツ・カエデ・マキが多い。西芳寺を模したといわれ、建築の配置や名称に西芳寺と関係するものが見られる。作庭の指導は義政といわれ、世阿弥が実地指導にあたったと伝える。庭園は、上下2段に分かれ、下段は池泉回遊式の庭園で、東求堂前から銀閣にかけてひろがり、中心地に錦鏡池があり、その池は瓢箪に近い形で、中島を置き自然石の橋が架かる。本堂前には月待山に上る月の美を賞するために作られたという銀沙灘・向月台という2つの砂盛がある。これは江戸時代に加えられたという。1931年(昭和6)年に発掘された上段の庭は枯山水風の趣で、「お茶の井」と呼ばれる湧水の石組がある。
*足利義政:1436~1490年。室町幕府第8代将軍。弟義視を入れて養子としたが、義尚が生まれるのに及んで義視を疎んじ、応仁の乱になった。慈照寺を建て、芸術を愛好保護し、東山時代を生んだ。東山殿と呼ばれる。
関連リンク 銀閣寺(WEBサイト)
参考文献 銀閣寺(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 中」山川出版社

2025年05月現在

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