名古屋城
地下鉄名城線名古屋城駅下車徒歩5分。「尾張名古屋は城でもつ」といわれたように、金鯱*で有名な名古屋城はむかしも今も名古屋の象徴である。
1521(大永元)年今川氏豊が、現在の二之丸の地に那古野城を築いたのが最初で、1538(天文7)年頃、織田信秀が氏豊を追ってこの城に入り、その子織田信長もここで生まれたという。その後信秀は古渡(ふるわたり)城を築くとこの城を信長に譲ったが、1555(弘治元)年信長が清洲に移ってからは廃城となっていた。しかし、家康にとって、大坂城の豊臣秀頼と豊臣恩顧の西国大名を服従させるには、清洲城は低湿地にあるため水攻めの恐れがあり、また城地も狭かったので、そこから南東約5km、尾張平野の要衝に位置した那古野城の地に新城を築き、清洲から遷府することになった。これがいわゆる「清洲越*(きよすごし)」である。
1610(慶長15)年徳川家康の命により、城郭建築最盛期であった当時の築城法の粋を集めて造られた。最大の課題は、石材*の採取で、この難題に動員されたのは加藤清正、前田利光、黒田長政、細川忠興らかつては豊臣秀吉の重臣であった外様大名ばかり20藩で、家康は豊臣氏に加担のおそれのある大名の財力を消耗させようと考えたのである。天守閣は1612(慶長17)年、本丸御殿や諸門もその3年後には完成したが、地元出身の加藤清正は天守閣の石塁を独力で築造するなど特に活躍し、また天守閣や御殿の造営は、庭園設計で有名な小堀遠州が指揮したといわれる。
1616(元和2)年家康が没すると、独立を許された義直が清洲から入城し初代尾張藩主となり、二之丸御殿に居住し、藩の政庁もここに置かれた。以降、尾張徳川家の居城として明治まで続くのである。二之丸御殿は通称御城といわれ、名古屋城の中枢となった。一方、本丸御殿は将軍上洛の際の宿殿にあてられた。
1871(明治4)年の廃藩置県後は一時陸軍の鎮台が置かれ、のち名古屋離宮となった。1930(昭和5)年からは市の所有となり一般公開されたが、1945(昭和20)年5月の空襲により大部分が焼失。1959(昭和34)年、市制70周年を記念して、天守閣と正門が再建され、名古屋の空に燦然と輝く金の鯱も復元された。さらに2009(平成21)年から本丸御殿の復元に着手し、2018(平成30)年に以前の絢爛豪華な本丸御殿*が姿を見せた。もとの建物で現存するのは西北・西南・東南の各隅櫓*と表二之門、二之丸大手二之門、旧二之丸東二之門であるが、本丸を囲む石垣や空堀・外堀などの城郭そのものはほぼ原形を伝え、城郭庭園の代表的な名園といわれる二之丸庭園*も一部だが残っている。さらに市は天守*を木造復元する方向で取り組みが進んでいる。
1521(大永元)年今川氏豊が、現在の二之丸の地に那古野城を築いたのが最初で、1538(天文7)年頃、織田信秀が氏豊を追ってこの城に入り、その子織田信長もここで生まれたという。その後信秀は古渡(ふるわたり)城を築くとこの城を信長に譲ったが、1555(弘治元)年信長が清洲に移ってからは廃城となっていた。しかし、家康にとって、大坂城の豊臣秀頼と豊臣恩顧の西国大名を服従させるには、清洲城は低湿地にあるため水攻めの恐れがあり、また城地も狭かったので、そこから南東約5km、尾張平野の要衝に位置した那古野城の地に新城を築き、清洲から遷府することになった。これがいわゆる「清洲越*(きよすごし)」である。
1610(慶長15)年徳川家康の命により、城郭建築最盛期であった当時の築城法の粋を集めて造られた。最大の課題は、石材*の採取で、この難題に動員されたのは加藤清正、前田利光、黒田長政、細川忠興らかつては豊臣秀吉の重臣であった外様大名ばかり20藩で、家康は豊臣氏に加担のおそれのある大名の財力を消耗させようと考えたのである。天守閣は1612(慶長17)年、本丸御殿や諸門もその3年後には完成したが、地元出身の加藤清正は天守閣の石塁を独力で築造するなど特に活躍し、また天守閣や御殿の造営は、庭園設計で有名な小堀遠州が指揮したといわれる。
1616(元和2)年家康が没すると、独立を許された義直が清洲から入城し初代尾張藩主となり、二之丸御殿に居住し、藩の政庁もここに置かれた。以降、尾張徳川家の居城として明治まで続くのである。二之丸御殿は通称御城といわれ、名古屋城の中枢となった。一方、本丸御殿は将軍上洛の際の宿殿にあてられた。
1871(明治4)年の廃藩置県後は一時陸軍の鎮台が置かれ、のち名古屋離宮となった。1930(昭和5)年からは市の所有となり一般公開されたが、1945(昭和20)年5月の空襲により大部分が焼失。1959(昭和34)年、市制70周年を記念して、天守閣と正門が再建され、名古屋の空に燦然と輝く金の鯱も復元された。さらに2009(平成21)年から本丸御殿の復元に着手し、2018(平成30)年に以前の絢爛豪華な本丸御殿*が姿を見せた。もとの建物で現存するのは西北・西南・東南の各隅櫓*と表二之門、二之丸大手二之門、旧二之丸東二之門であるが、本丸を囲む石垣や空堀・外堀などの城郭そのものはほぼ原形を伝え、城郭庭園の代表的な名園といわれる二之丸庭園*も一部だが残っている。さらに市は天守*を木造復元する方向で取り組みが進んでいる。
みどころ
天守の形式は大天守と小天守を橋台という通路で結ばれた連結式天守で、橋台上には軒先に槍の穂先を並べた形の剣塀が築かれた。これを3つの隅櫓(すみやぐら)で囲み、中心に桃山美術の宝庫である本丸御殿を置いた豪壮堅固なもので、明治以降では、天守閣と御殿が完全な形で残る全国的にも稀有な例として、国宝にも指定されていた。本丸御殿は、京都の二条城二之丸御殿とともに武家風書院造の双璧といわれる。
広さ1,500m2の三之丸庭園は、1936(昭和11)年に外堀わきの林の中から発見されたものを整備したもので、桃山様式を残す枯山水の庭園である。作庭の時期については不明。
広い城内では、ウメ、サクラ、ボタン、フジなどの花が、秋には二之丸庭園のモミジが、それぞれの季節を彩る。
周辺の商業施設として、正門側の「義直ゾーン」、東門側の「宗春ゾーン」の2つのエリアに、「なごやめし」の伝統ある老舗飲食店が集まる「金シャチ横丁」が2018(平成30)年にオープンし、さらに城を訪れる楽しみが加わった。
広さ1,500m2の三之丸庭園は、1936(昭和11)年に外堀わきの林の中から発見されたものを整備したもので、桃山様式を残す枯山水の庭園である。作庭の時期については不明。
広い城内では、ウメ、サクラ、ボタン、フジなどの花が、秋には二之丸庭園のモミジが、それぞれの季節を彩る。
周辺の商業施設として、正門側の「義直ゾーン」、東門側の「宗春ゾーン」の2つのエリアに、「なごやめし」の伝統ある老舗飲食店が集まる「金シャチ横丁」が2018(平成30)年にオープンし、さらに城を訪れる楽しみが加わった。
補足情報
*金鯱:大天守の大棟に飾られた金の鯱に、使用された金の量は慶長小判で1,940枚とされた。現在は2代目であり18kの金板で覆われている。
*清州(須)越:清州は戦国時代、ここに居を構えた織田信長以降、尾張の中心として栄えた。しかし、1609(慶長14)年、幼少徳川義直が城主のとき、家臣山下氏勝が、五条川の氾濫などを理由に、城の移転を建議し、まちぐるみで名古屋台地への移転となった。家康は、大坂の陣に備え、大名の勢力削減を目的に、移転に伴う莫大な費用を諸大名に負担させた。清洲越は1610(慶長15)年に始まり1613(慶長18)年に終了したらしい。城以外に、屋敷・町家まで移転。名古屋市四間道周辺は清洲商人が開いた場所、堀川にかかる五条橋の名からも清州をしのぶことができる。以降、清洲のまちの多くが田畑となってしまった。
*石材:城内の石垣の石には多種多様の紋を刻んであるものが残る。これは、大名が自分の運んだ石を判別するために刻んだ目印で、名前を刻んだものもある。
*本丸御殿:2009(平成21)年から復元工事が進められ、2018(平成30)年に完成。総面積3,100m2、13棟の建物で構成されている。玄関・表書院・対面所・下御膳所、湯殿書院、最も絢爛豪華な上洛殿などが完成し、公開されている。書院造の大建築で、内部の装飾も豪華である。廊下や各部屋の襖や障子から天井や壁には、元は狩野派の手による金箔地に極彩色の金碧絵をはじめ淡彩画、水墨画などが一面に描かれており、模写復元されている。
*隅櫓:現在残る隅櫓は本丸の西南・東南の両隅櫓と、深井丸にあり外堀に臨む西北隅櫓である。東南隅櫓は辰巳櫓ともいい、外面2層内部3重、白塗壁、屋根入母屋造、西・南の両面に石落としがある。西南隅櫓は東南のものと規模や構造はほぼ同じである。西北隅櫓は3層で、初層は東西7間、南北8間。荘重で安定感に富んでいる。清洲城の古材を使用したといわれ、清洲櫓とも呼ばれている。なお、本丸にあった東北隅櫓は戦災により焼失した。
*二之丸庭園:回遊式庭園である。城郭庭園で、築山や谷は起伏が大きく、多くの巨石を置いて峻険な様相をみせており、樹木も深い。明治維新の際に二之丸御殿とともに破却され規模も数分の一に縮小された。今までの北庭と南庭に加えて、東側庭園も1978(昭和53)年4月、公開された。北庭は旧態をよくとどめている。
*天守:耐震性に問題があるため、現在は非公開。展示されていた障壁画は、西の丸御蔵城宝館にて随時公開している。
*清州(須)越:清州は戦国時代、ここに居を構えた織田信長以降、尾張の中心として栄えた。しかし、1609(慶長14)年、幼少徳川義直が城主のとき、家臣山下氏勝が、五条川の氾濫などを理由に、城の移転を建議し、まちぐるみで名古屋台地への移転となった。家康は、大坂の陣に備え、大名の勢力削減を目的に、移転に伴う莫大な費用を諸大名に負担させた。清洲越は1610(慶長15)年に始まり1613(慶長18)年に終了したらしい。城以外に、屋敷・町家まで移転。名古屋市四間道周辺は清洲商人が開いた場所、堀川にかかる五条橋の名からも清州をしのぶことができる。以降、清洲のまちの多くが田畑となってしまった。
*石材:城内の石垣の石には多種多様の紋を刻んであるものが残る。これは、大名が自分の運んだ石を判別するために刻んだ目印で、名前を刻んだものもある。
*本丸御殿:2009(平成21)年から復元工事が進められ、2018(平成30)年に完成。総面積3,100m2、13棟の建物で構成されている。玄関・表書院・対面所・下御膳所、湯殿書院、最も絢爛豪華な上洛殿などが完成し、公開されている。書院造の大建築で、内部の装飾も豪華である。廊下や各部屋の襖や障子から天井や壁には、元は狩野派の手による金箔地に極彩色の金碧絵をはじめ淡彩画、水墨画などが一面に描かれており、模写復元されている。
*隅櫓:現在残る隅櫓は本丸の西南・東南の両隅櫓と、深井丸にあり外堀に臨む西北隅櫓である。東南隅櫓は辰巳櫓ともいい、外面2層内部3重、白塗壁、屋根入母屋造、西・南の両面に石落としがある。西南隅櫓は東南のものと規模や構造はほぼ同じである。西北隅櫓は3層で、初層は東西7間、南北8間。荘重で安定感に富んでいる。清洲城の古材を使用したといわれ、清洲櫓とも呼ばれている。なお、本丸にあった東北隅櫓は戦災により焼失した。
*二之丸庭園:回遊式庭園である。城郭庭園で、築山や谷は起伏が大きく、多くの巨石を置いて峻険な様相をみせており、樹木も深い。明治維新の際に二之丸御殿とともに破却され規模も数分の一に縮小された。今までの北庭と南庭に加えて、東側庭園も1978(昭和53)年4月、公開された。北庭は旧態をよくとどめている。
*天守:耐震性に問題があるため、現在は非公開。展示されていた障壁画は、西の丸御蔵城宝館にて随時公開している。
関連リンク | 名古屋城(名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 )(WEBサイト) |
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参考文献 |
名古屋城(名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 )(WEBサイト) 『名古屋城本丸御殿』パンフレット あいち観光ナビ(一般社団法人 愛知県観光協会)(WEBサイト) 『愛知県の歴史散歩 上』愛知県高等学校郷土史研究会=編 山川出版社 |
2024年06月現在
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