修善寺温泉しゅぜんじおんせん

伊豆箱根鉄道の終点、修善寺駅から西へ約2km、左右から山が迫った桂川の両岸に、大小の旅館がぎっしりと軒を連ねて温泉街を形成している。
 修善寺温泉は、約50万年前まで噴火をしていた達磨火山の麓の谷あいを流れる桂川が、達磨火山の下にあった海底火山噴出物の地層に達するまで浸食し、この地層から湧出したものである。このため、温泉の湧出場所は桂川沿いにあり、昭和20年代(1945~1955年)までは自然湧出していたが、現在は源泉井戸から揚湯している。                    
 開湯は古く、弘法大師による開湯伝説もあるが、近世以前にすでに数か所の源泉が利用されていたといわれ、江戸中期の「和漢三才圖會」も「寺前有川、名修善寺川、川中有温泉、自疊磐爲方圍」と、川の中に岩を積んで囲いとした温泉があることが記されている。明治期には自然湧泉の共同浴場が7か所となり、内湯用の源泉の開発も進み、「遠近ノ浴客常ニ踵ヲ接シ其繁盛熱海温泉ニ次グ」(『増訂伊豆志稿』)と湯治場として盛況をみせ、夏目漱石*1や、泉鏡花、田山花袋、岡本綺堂、川端康成など多くの文豪が、湯治や静養のため逗留した。
 現在、外湯としては開湯伝説にあやかる独鈷の湯(入浴不可、見学のみ)と筥湯*2の2湯がある。泉質は単純温泉。土地が狭いため大規模な旅館ホテルは少ないが、数寄屋造の純和風旅館で立派な庭園や離れをもち、文豪たちとの関係が深い高級老舗旅館も多い。 また、町の中央には、岡本綺堂の戯曲「修禅寺物語」で名高い古刹修禅寺がある。
#

みどころ

田山花袋は1922(大正11)年の「温泉周遊 西の巻」で「修禅寺はこの桂川に添って、ぐるりと弓弦を張ったやうに入つて行つたところにあった。半ば山の裾、半ば渓(たに)に畔(ほとり)と言つたやうな感じのところ…中略…渓を跨いで、二層三層の旅舎(やどや)がその兩岸にある」と描写している。
 現在も、華やかななかにも独特の落ち着いた、かつての温泉情緒が漂っている温泉だ。また、泉鏡花が「修善寺は竹が名物だろうか、そういえば、随分立派なのがすくすくある。路ばたでも竹の子のずらりと 明るく行列をした処を見掛ける」と記しているが、現在も桂川右岸、楓橋と桂橋の間にある散策道は竹林の小径となっている。
 茶処や火の見櫓などもあり、日没後はライトアップされ、風情ある散歩を楽しむことができる。
#

補足情報

*1 夏目漱石:1910(明治43)年の夏、持病の胃潰瘍の転地療養のため、修善寺温泉に逗留。この折、逗留先で大量の喀血をし、生死を彷徨った。この療養について漱石が書きのこした「思い出す事など」「修善寺日記」などの随想、日記がある。
*2 独鈷の湯と筥湯:開湯伝説としては、807(大同2)年に弘法大師がこの地を訪れ、桂川で病みつかれた父の体を洗う少年を見つけ、孝心に心を打たれた弘法大師は独鈷杵で川中の岩を打ち、そこから霊泉を湧出させたというもの。水害防止のため2009(平成21)年に19mほど下流の現在地へ移転し、入浴は禁止(見学のみ可)となった。川端康成は、移転前の独鈷ノ湯を「川岸から板を渡って岩へ行く。大正の初めの頃はまだ四方硝子張りの湯殿であった。虎溪橋からも、岸からも、宿の窓からも、浴みする人がみえたろう。が、今は板格子張りだ。しかし、川瀬の浮見堂のような湯殿だ」と書いている。移転先の独鈷ノ湯もこれに似せた湯殿にしている。筥湯はかつてあった源泉名で、2000(平成12)年に復元。現在、内湯のみだが入浴可。なお、足湯として古い源泉名を付けた河原湯、杉ノ湯が無料公開されている。

あわせて行きたい