修禅寺しゅぜんじ

伊豆箱根鉄道修善寺駅から西へ約2.7km、虎渓橋前の石段を上った奥に境内がある。平安時代初期の807(大同2)年に、弘法大師が修行した霊跡と伝わり、江戸中期に編纂された日本の高僧の伝記集「本朝高僧伝」では、弘法大師の弟子、杲隣*1が開山したとの記述もある。
 鎌倉期の1275(建治元)年には、鎌倉から中国の高僧蘭渓道隆*2が入山し臨済宗に改宗され、北条氏が帰依したことから、堂塔が連なる大寺として栄え修禅寺発展の基となった。一方、源氏一族の骨肉相はむ悲劇*3が演じられ、源氏滅亡の場所ともなった。室町期に入ると、1489(延徳元)年に当時韮山城主であった北条早雲が隆溪繁紹を住職として招いて再度曹洞宗に改宗され、さらに隆盛を迎えた。
 本堂須弥壇には、国指定重要文化財の木造大日如来坐像*4が安置され、毎年、秋に特別公開されている。境内の向かって右奥にある宝物館には、源頼家*5の顔を映したという言い伝えもある古面をはじめ、北条政子*6署名の放光般若波羅蜜多経、頼家陣旗、範頼馬具などが陳列され、天井には川端龍子の筆で玉とり龍の絵が描かれている。現在の本堂は明治期に再建されたものである。山号は福地山。
 また、虎渓橋南詰の旅館街から指月ヶ岡へ登る途中に指月殿がある。別称一切経堂といい、北条政子がわが子頼家の冥福を祈るため、宋版大蔵経を納めて建てた経堂で、堂内には釈迦如来像が祭られている。堂の傍には、苔むした頼家の墓が立っているが、遺骸は指月殿地下に埋められているという。
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みどころ

修禅寺について、源頼家の悲劇的な最期を描いた戯曲「修禅寺物語」*7の作者岡本綺堂は、「いつ詣っても感じのよい御寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、この御寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽かな感じをあたえるのがかえって雄大荘厳の趣を示している」(『春の修善寺』)と、頼家の悲劇とは対照的な境内の印象を記している。                                                                                       
 宝物殿にある古面は、岡本綺堂の戯曲「修禅寺物語」の着想のもとになったものだが、岡本綺堂自身、「頼家の仮面というものがある。頗る大(おおき)いもので、恐く舞楽の面かとも思われる。頼家の仮面というのは、頼家所蔵の面という意味か、あるいは頼家その人に肖せたる仮面か、それは判然解らぬが、多分前者であろうと察せられる」(『修禅寺物語・明治座五月興行』)とし、漆にかぶれた頼家の顔を主人公の夜叉王が彫ったという戯曲のストーリーは完全なフィクションだともしている。
 しかし、この面をみていると、鎌倉幕府内における近親同士の権力闘争の凄まじさを伝えているような感じさえする。
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補足情報

*1 杲隣:ごうりん 767(神護景雲元)年~没年不明 『本朝高僧伝』では、「何ノ所ノ人ナルカ審ラカニ不ズ」としているが、「弘法大師道海内ニ鳴ルヲ聞テ 往テ特ニ随イ仕フ」とされ、その後「豆州ノ走湯縣ニ往テ修禅寺ヲ建 第一代ト爲ル 国内ノ士庶信嚮帰スル如ク」と修禅寺の開創となり、信仰を集めたとしている。
*2 蘭渓道隆:らんけいどうりゅう 1213~1278(弘安元)年。『本朝高僧伝』では「宋ノ西蜀培江ノ人」(中国四川省培江の出身)とされ、1246(寛元4)年に来朝。京都泉涌寺等に寄寓後、北条時頼に迎えられ「府城ノ東ニ大伽藍ヲ営テ 巨福山建長興國禅寺ト號ス 隆ヲ請テ開山初祖ト為」した(北条時頼が鎌倉の東に大きな伽藍を造営して現在の建長寺として、蘭渓道隆を招いて開山の祖とした)。一時流言により、甲州などに配流になったが、この時期に修禅寺にも立ち寄ったとされている。その後、復帰し、「大覺禪師ト本朝禪師ノ號 隆 自リ始レリ也」と諡(おくりな)に「禅師」が付される最初の高僧となった。                                              
*3 悲劇:1194(建久5)年、源範頼(みなもとののりより)は兄である将軍源頼朝の猜疑を受けここに幽居。間もなく梶原景時に攻められて自刃した。また、頼朝の長子で2代将軍源頼家は、母政子と祖父北条時政の謀略により幽閉され、1204(元久元)年虎渓橋畔の筥湯に入浴中暗殺された。岡本綺堂作の戯曲『修禅寺物語』はこの頼家の史実に着想を得て描かれたものである。
*4 木造大日如来坐像:檜材の寄木造。近年の修理で像のなかから「承元四年(1210)八月廿八日/大佛師實慶作」の墨書銘と女性のものとみられる頭髪二束およびかつら一束が発見された。この頭髪は修禅寺で幽閉、暗殺された源頼家の室辻殿のものとみられている。本像の力強い迫力ある面貌、しっかりとした体躯などは、東国における鎌倉前期の慶派の特色が良く表れているといわれている。                                                                             
*5 源頼家:1182(治承6)年~1204(元久元)年。鎌倉幕府2代将軍。父は頼朝、母は北条政子。1202(建仁2)年に将軍職に就いたが、北条氏の専横によって実権を失った。このため、北条氏討伐を策したが失敗し、修善寺に幽閉後、殺害された。 
*6 北条政子:1157(保元2)年~1225(嘉禄元)年。 北条時政の娘、源頼朝の妻。1177(治承元)年に伊豆配流中の頼朝に嫁した。頼家、実朝を生んだ。頼朝の死後、幕政に参画し、3代将軍実朝の死後、関白九条家から迎えた4代将軍頼経の後見として実権を握り、「尼将軍」と称された。1221(承久3)年、後鳥羽上皇が皇権回復のために起こした承久の乱に際しては、動揺する御家人をまとめ上げたと『吾妻鏡』にも記されており、幕府体制を固めたとされている。                              
*7 「修禅寺物語」:岡本綺堂が1911(明治44)年に発表した戯曲。当初は新歌舞伎の演目として書かれ、その後映画にもなり、現在も様々な演劇形式で取り上げられている。ストーリーは主人公の面作り師夜叉王が、頼家から自身の顏を模した面を作るように命ぜられたものの、打つたびに死相が現れ頼家に渡すことができなかった。しかし、頼家はその面の出来をいたく気に入り強引に手に入れたが、その夜暗殺された。夜叉王の娘桂は暗殺の場に居合わせ、瀕死の深手を負って家に戻ると、夜叉王は頼家の死は運命が面に現れたものと、自分の技に満足し、次の面作りに役立たせようと死に際の娘の顔さえ写しとろうとする。まさに究極の職人気質を描いた戯曲。
関連リンク 修禅寺(WEBサイト)
参考文献 修禅寺(WEBサイト)
『本朝高僧伝』蘭渓道隆 国文学研究資料館
『豆州志稿』国文学研究資料館
『下田街道』静岡県教育委員会
『静岡県の歴史散歩』静岡県日本史教育研究会=編 山川出版社

2023年10月現在

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