駿府城跡(駿府城公園)すんぷじょうせき(すんぷじょうこうえん)

JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅の北700mにある平城の城跡で、明治以降は石垣と堀を残すのみだったが、1989(平成元)年に静岡市市制100周年を記念して巽櫓*1が復元され、現在は駿府城公園として市民に親しまれている。
 駿府城は今川氏*2・武田氏のあと駿府を治めた徳川家康*3が1585~1590(天正13~18)年に築いた城で、三河・駿河・遠江・甲斐・信濃5ヶ国を治める居城となった。家康は再び晩年に大御所として、この城に戻り1607~1610(慶長12~15)年に大改修し、7階建ての天守も築かれた。このときの規模は堀を含めて面積52万m2で本丸、二ノ丸、三ノ丸があり、それぞれその外側に堀を巡らせた。
 1635(寛永12)年に大火で類焼、1638(寛永15)年に櫓、門などは再築されたが天守は再建されなかった。明治時代になると城の建物は取り壊された。
#

みどころ

1690~1692年に在日していた、ドイツ人でオランダ商館医のケンプェルは、長崎から江戸に2回参府しているが、1回目の参府を「江戸参府紀行」にまとめている。そのなかで、駿府と駿府城について「開放的にして閭門(廓壁)なく町筋は頗る廣く平夷…中略…此地にて江戸・京都と同じく貨幣を鋳造す」と城下の繁栄ぶりを記し、「城は北側にあり、四方形の建物にして、濠と角石にて高く築きたる堤防とを廻らしたり。高くして遠く平野に輝きたる城塔ありしが數年前に火災にて焼失したり」と、寛永の大火にも触れつつ、豪壮な規模の城だったことも記録している。
 いまは、当時を窺わせるものは石垣と堀の一部と復元された櫓などしか残されていないが、往時の規模の大きさを実感させる城跡公園となっている。家康が駿府城を愛でたのは、出自や軍事的政治的な意味合いはもちろん強かったであろうが、この地に立ってみると、その温暖な気候と富士や駿河湾が与える風光もあったのではないかと、誰しもが思い至るところだろう。
#

補足情報

*1 巽櫓、東御門、坤櫓(ひつじさるやぐら):宝暦年間(1751~1763年)の修復記録や江戸期の絵図や惣図などをもとに巽櫓は1989(平成元)年に、東御門は1996(平成8)年に、坤櫓は2014(平成26)年にそれぞれ木造復元された。現在、内部は資料館などになっていて、見学することができる。                                                                                   *2 今川氏:駿河今川氏の初代範国が1338(建武5)年に足利尊氏に駿河国守護を任ぜられた。その後、現在の駿府城公園付近に館が築かれて、駿河今川氏の本拠地となったといわれている。
*3 徳川家康:江戸幕府初代将軍徳川家康は1549(天文18)年から11年間、竹千代と呼ばれた幼少期に今川氏の人質として駿府で過ごした。通常の人質とは異なり、今川氏の軍師であった臨済寺の住職雪斎に指導を受けるなど優遇されていたという。1584(天正14)年に、家康が5か国(三河・駿河・遠江・甲斐・信濃)支配の拠点として、浜松から駿府に居城を移した。将軍を退いた後は江戸から再び駿府城にもどり政治を動かした。この地で亡くなり、久能山東照宮に葬られた。

あわせて行きたい