熱海温泉あたみおんせん

丘陵の中腹にあるJR東海道本線・東海道新幹線熱海駅から、相模湾に向いた傾斜地や海岸沿いの平坦地に、旅館やホテル、土産物店や飲食店などが所狭しと建ち並ぶ。熱海駅から海岸沿いの左手には、熱海温泉に隣接して「走り湯」で知られる伊豆山温泉*1もある。                                                              
 熱海温泉の開湯伝説には種々あるが、5世紀末といわれる仁賢天皇の頃、罪人の屍を海に沈めたところ、海上に忽然と湧き出たといい、熱湯にふれて爛れ死ぬ魚類が多く岸に吹き寄せ悪臭が漂い、人も近づけなかったという。天平宝字(757~765年)の頃、箱根山の万巻上人が薬師如来とおぼしき白髪の翁のお告げに従い、「斎戒沐浴し海岸の洞に入り断食して祈る事三七日満願の夜 うしろの山々鳴動し海上の波涛さかまき」、そして上人が岩屋を出てみれば、「石の間より熱湯湧いづるありさま神龍口をひらきて水を吐くがごとし」と念力の満願によって海中の温泉を山側に移したとしている。これが熱海の間欠泉であり、大湯のもとになったと言い伝えられている。
 大湯間欠泉近くには、この言い伝えと縁が深い湯前神社がある。この大湯は、中世にはすでに隣接する伊豆山の「走り湯」とともに、湯治場として広く知れ渡っており、多くの武将、公家、文人も訪れていた。1604(慶長9)年には徳川家康が来湯*2し、家綱の代からは江戸城へも熱海の湯が送られた記録がある。江戸期には、熱海七湯*3といわれる源泉も整備され、湯治場として多くの保養、湯治客を迎えた。                              
 明治時代に入ると、東京方面から湯治や避暑客が訪れていたが、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の舞台となって全国的に知られるようになり、1925年(大正14)年の鉄道(熱海線)の開業以降飛躍的に発展した。さらに丹那トンネル*4の開通によって1934年(昭和9)年に東海道本線が御殿場回りから熱海経由となり、1964年(昭和39)年の東海道新幹線の開通とともに関西方面からの客も急激に増加し、高度成長経済下で日本屈指の温泉地となり繁栄した。
 しかし、1990年代になると、旅行需要の変化とともに大規模旅館を中心に厳しい時代を迎え、休廃業する宿泊施設も相次いだ。それも近年に至り、首都圏から気軽に立ち寄れる温泉地として見直され、宿泊施設、日帰り温泉などのリニューアル、新設などと並び、話題のスイーツ店の出店や新たな商店街のにぎわいが生まれ、幅広い層の誘客が可能となっている。                                   
 主な泉質は塩化物温泉と硫酸塩温泉で、1日の総湧出量は約2万tを誇る。旅館・ホテルの総数は100軒を超え、その他保養所などの宿泊施設も百数十軒ある。年間行事として熱海海上花火大会(年間約10回)など、多くのイベントも用意されている。
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みどころ

熱海温泉の魅力は、湯量豊富な温泉で、大規模なリゾートホテルからきめ細かなサービスで歴史のある小宿まで、様々なタイプの宿泊施設があることだ。また、極めて古い歴史を有する温泉地だけに、それに纏わる伝説、古跡、社寺も数多く、さらには明治、大正の文豪たちの足跡や、昭和の温泉情緒を思わせる宿や街並みも残り、ゆったりと歴史を振り返る散策や見学が楽しめる。
 海岸はビーチの美しいライトアップも毎日行われ、夏には海水浴場となり、海釣り施設や遊覧船など、観光施設も充実し、年間を通じての海上花火大会など各種イベントも用意され、若年層、ファミリー層にとっても気軽に楽しめる温泉地である。
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補足情報

*1 「走り湯」で知られる伊豆山温泉:伊豆山温泉の開湯は古く、『伊豆国風土記』逸文では「養老年中(717~724年)に、開基(はじ)まれり。世の尋常(よのつね)の出湯に非ず。一晝(ひとひ)に二度(ふたたび)、山の岸の窟(いはや)の中、火焔隆り發(おこ)りて出づ。その温泉甚だ燐烈し、沸湯を鈍らすに樋を以てし、湯船に盛りて身を浸せば、諸の病悉く治ゆ」と伝えている。その後、海に向け温泉がほとばしり出ていたことから「走り湯」と称され、伊豆山神社(権現)と結びつき信仰の対象となった。とくに源頼朝をはじめ、東国武士からの崇敬が篤く、鎌倉幕府3代将軍源実朝も1214(建保2)年に二所詣(箱根権現と伊豆山⦅走り湯⦆権現)を行い、「走り湯」について「はしり湯の 神とはむべぞ いひけらし はやきしるしの あればなりけり」あるいは 「伊豆の国 山の南に いづる湯の はやきは神の しるしなりけり」と詠んでいる。現在も、伊豆山神社を中心に相模湾を望む傾斜地に宿泊施設が建ち並ぶ。泉質は塩化物、硫酸塩、単純温泉など。源泉のひとつ「走り湯」は泉温70℃ほど。                                                                                                *2 徳川家康が来湯:「東照宮御實紀」によれば、1604(慶長9)年に 「三月朔日御上洛あるべしとて江戶城を御發輿あり。五郞太丸長福丸兩公子をともなはせ給ひ。御道すがら伊豆國熱海の溫泉にゆあみし給ふとて。七日御滯留ましまし。此間御みづから御獨吟の連歌をあそばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村の雲にわかるゝ鴈(かり)啼て。つきづき百韻に滿しめ給ふ」という記述が見られる。また、家康は熱海の湯の効用を実感したのか、吉川廣家が病臥にいると聞いて「この地温泉を五桶廣家がもとへ搬送せしめらる」とも記されている。                                                         
*3 熱海七湯:江戸時代までには源泉の数も拡充され、なかでも、大湯、清左衛門ノ湯、小澤ノ湯、風呂ノ湯、河原ノ湯、佐治郎ノ湯、野中ノ湯を熱海七湯とした。江戸時代の熱海は天領であり、大名、武家などの支配層を中心とした保養、湯治の温泉地だった。中核的な源泉であった大湯などから引き湯して湯宿の営業を許されていた「湯戸」は、27軒前後であったといわれている。         
*4 丹那トンネル:1918(大正7)年着工以来16年の歳月をかけ開通。これにより東海道本線は御殿場回りから熱海経由となった。東京~沼津間は所要時間2時間28分で運転され、御殿場回りと比較し38分短縮された。丹那トンネル開通当時の東京-熱海間の最短の所要時間は1 時間 41 分であった。全長7,804m。

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