秋葉山本宮秋葉神社あきはさんほんぐうあきはじんじゃ

浜松市の中心街から北へ約30km、南アルプスの南端、標高866mの秋葉山山頂に鎮座し、秋葉山を御神体として火之迦具土大神(ひのかぐづちのおおかみ 別称:火産霊神)を祀る。社伝によれば、秋葉の火の神の社として709(和銅2)年の創建*1と伝えられる。中世両部神道*2の影響を受け、秋葉大権現と称し、火防の神の総本宮として名高い。とくに江戸中期以降、秋葉信仰として中部、関東地方を中心に広まり、講や代参*3、分祀などが盛んにおこなわれた。明治時代の神仏分離によって、秋葉大権現は秋葉神社と改められ、別当寺である秋葉寺(しゅうようじ)*4は廃寺となり、秋葉三尺坊大権現像は袋井市の可睡斎へ移された。現在、山頂には上社、山麓には下社があり、両社で神事を執り行っている。社殿はたびたび兵火、火災に遭い焼失しており、1812(文化9)年に建立された神門以外は、昭和以降に再建されたものが多い。 
山頂上社へは浜松市天竜区の天竜川にかかる雲名橋からスーパー林道で約10km、上流の秋葉ダムからも10kmほどの道のりである。下社から山頂へ至る杉木立の参道はかつての秋葉街道で、現在は東海自然歩道のコース(片道約4km)となっている。                                                                         
同社の火災鎮護の神事である12月15、16日の「秋葉の火まつり」*5には多くの参拝客、見物客が訪れる。
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みどころ

天竜川河畔から曲がりくねった、深い森林のなかを行く林道を経て一挙に標高800m余りに達する。参道を抜け石段を登り金色の鳥居をくぐるとと、本殿前の広場に立つ。振り返ってみると大きく眺望が開け、遠州平野、天竜の流れはもとより、晴天に恵まれれば、遠州灘、浜名湖まで遠望できる。本殿は杉木立を背に、火防の神様、秋葉神社の本宮らしい風格をみせて建っている。さらに自然に触れるなら、下社と上社を結ぶ表参道である旧秋葉街道(東海自然歩道)のハイキングもおすすめだ。鬱蒼とした杉木立の中を行く参道は、途中、富士山の眺望が得られ、古くから信者たちが歩んだ道を満喫できる。旧秋葉街道の雰囲気を気軽に味わってみたいという方には、上社から少し下って境内最古の建物の「神門」のあたりまでの散策がよいだろう。
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補足情報

*1 創建:『延喜式』には記載されていないが、『三代実録』の874(貞観16)年5月10日の項には「授遠江國正位六位上 岐氣保神 従五位下」と昇位の記録が遺されており、江戸中期の『遠江国風土記伝』では、これが秋葉神社だとしている。同書では当時の社名の「岐氣」は郷名で、「保」は「火」(ほ)を指すものとして「火防神」であると推定している。
また、江戸後期の『掛川志稿』によると、荒唐無稽だとしつつも、越後国蔵王堂十二坊にある三尺坊の坊主が霊験を受け、自らが観世音菩薩の化身だとして、809(大同4)年にこの地を安住の峰と定めたという。さらに、その三尺坊の坊主は460年余りにわたり諸国を巡って1294(永仁2)年に再びこの地に戻り、神になったという伝承があるとしている。これが「観世音菩薩の垂跡權化(化身)」としての「秋葉三尺坊大権現」のいわれだとも伝えている。                                                                        
*2 両部神道:真言密教の教理を神道と結び付けた神仏習合の思想。なお、江戸期までの神仏習合期における同神社(秋葉大権現)の祭神は大山貴命であり、観世音菩薩の化身として「秋葉三尺坊大権現」が祀られていた。明治期の神仏分離によって「権現」の名は使えなくなり、祭神は火之迦具土大神(ひのかぐづちのおおかみ 別称:火産霊神)とされ、権現像は可睡斎に移された。                                                    *3 講や代参:江戸後期の『東海道名所図会』では「近年都鄙の参詣者寒を嫌はず蟻の如く道に集ひ 秋葉講とて國々縣々にて多くの人數を聚め 月参には宿々の泊札辻々路の標石あるひは石燈籠を建て常夜を照らす」という状況だと記している。また、勧請の祠や祈祷所が「江戸大阪其外諸國に多し何れも詣人つとひいて賑しき事法莚の如し」ともしている。また、東海道掛川宿の秋葉街道の起点だった大池橋近くには、大鳥居と秋葉神社の遙拝所(現在は大鳥居はないが、遥拝所は再建されている)があったが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のなかでも「秋葉三尺坊へのわかれ道にいたり、弥次郎兵へ遥拝して『脇差の弐尺五寸もなにかせん三尺ぼうの誓ひたのめば』(二尺五寸の長脇差をさしていても役に立たない、それよりも秋葉三尺坊にお祈りしてその庇護を頼めばもう安心なものだ)」 と書いている。                                                                         *4 秋葉寺:中世以降の神仏習合であったころは、同社の別当寺として山岳信仰とも関係が深く大登山秋葉寺(法相宗)と称し、江戸初期には曹洞宗の可睡斎の末寺となった。現在、上社から表参道を600mほど下ったところにある秋葉山秋葉寺は、明治半ばに新しく興された寺で、秋葉神社との関係はない。
*5 秋葉の火まつり:同祭のクライマックスは、12月16日午後10時からの弓、剣、火の三舞の奉納。とくに闇の中で大松明を振り回す火の舞は勇壮華麗。
*6 東京・秋葉原との関係:1869年(明治2年)に神田相生町で大火が発生。大火の被害を憂慮した明治天皇が「鎮火社」を現在のJR秋葉原駅付近に建立。東京府は「鎮火社」の周辺に「火除地」を設置。人々はこの「鎮火社」を、江戸時代に火防の神として広く信仰を集めていた「秋葉大権現」が勧請されたものと誤解し、「鎮火社」を「秋葉様(あきばさま)」「秋葉さん(あきばさん)」と、「火除地」を「秋葉原(あきばっぱら)」「秋葉の原(あきばのはら)」と呼んだ。その後、この地に鉄道駅ができ、駅名を当地の呼び方にちなみ「秋葉原駅(あきはばら駅)」とした。「鎮火社」は台東区松が谷に移転し、その際、正式に秋葉神社と改名された。

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