奥山方広寺おくやまほうこうじ

天竜浜名湖鉄道気賀駅より北へ約8km、臨済宗方広寺*1派の大本山。1371(応安4)年、当地を支配していた奥山六郎次郎朝藤が後醍醐天皇の皇子無文(むもん)禅師を招き、土地、建物を寄進し創建*2した。このため、同寺の開基は奥山六郎次郎朝藤とし、開山を無文禅師としている。本尊は木造釈迦如来及両脇侍坐像*3。同寺の鎮守である半僧坊大権現*4は火防の神として信仰を集めており、「奥山半僧坊」の名でも知られる。
 奥山の中腹、老杉が茂る広大な境内に30余の堂宇や五百羅漢が配されている。堂宇のなかには創建から遺されている七尊菩薩堂*5もあるが、他の伽藍堂宇は、何度もの火災に遭い焼失しており、とくに1881(明治14)年の山林火災では大半を焼失した。このため、現在の山門・本堂・大権現堂・三重塔などはいずれも明治以降に再建したものではあるが、これらの建物は焼失前の同寺の歴史的な景観や雰囲気を保っている。
 年中行事としては、2月16日の火防祭*6、4月21・22日の開山忌、10月中旬の半僧坊大祭などが知られている。
#

みどころ

門前町にある赤い鳥居をくぐり、坂を登って行くと、総門(黒門)、さらに深山幽谷に踏み入れていくような参道を行くと、五百羅漢*7に出合う。なかには半円形の石橋の上にいる羅漢像もあり、様々な表情や容姿をした五百羅漢像と向き合うのは興味深い。そのすぐ先には樹齢600年を超えるといわれる半僧杉があり、これは明治の大火で焼けなかったことから、御神木として大切にされている。
 登り詰めた先に、本殿が深い緑を背にして豪壮に構え、山腹には堂宇が点在している。境内は大正年間の「引佐郡誌」によれば、「谷深く老杉巨檜鬱然として雲に入り溪邊巨岩怪石羅布し五百の羅漢其上に安置し滑かなる所頗る幽趣きに富み眞に脱俗の仙境なり」としているが、その風情、趣きは現在でも残されているので、参拝のあとは、じっくり境内を散策してみるのをお勧めする。
#

補足情報

*1 方広寺:豊臣氏と徳川氏の争いに巻き込まれた「国家安康」鐘銘事件で知られる方広寺は、京都にあり、天台宗の寺院。  
*2 創建:江戸中期の『遠江国風土記伝』では、無文禅師が当地に入ったのは1384(北朝では至徳元、南朝では元中元)年だとする説も紹介している。また、「地景形様於唐土天台之方廣寺」とこの地の地形が中国の天台山方広寺に似ていることから寺号を「方広寺」と無文禅師が名付けたものとしている。無文禅師は山門近くに癩(らい)病患者の救済施設も設けたといわれ、同寺が臨済宗方広寺派の大本山として発展する基礎を作った。山号は深奥山。
*3 木造釈迦如来及両脇侍坐像(重要文化財):1352(観応3)年作造。院派の仏師院吉が本尊を、院吉の統率のもと院廣・院遵が両脇侍を造仏した。常陸国(茨城県)清音寺の本尊であったが、明治時代に方広寺の本尊として遷座。          
*4 半僧坊大権現:半僧坊の縁起は諸説あるが、寺伝では無文禅師が中国留学から戻る航海で嵐に遭い、船が沈みそうになった時に異人風の男が現れ船を守り無文を護るので、日本においての正法の広布をなしとげるようと言って無事博多まで導いたという。さらに、数年後、無文が方広寺を創建したとき、再び現れ同寺の鎮守となることを申し出たとされ、それを祀ったのが半僧坊だとされる。また、「引佐郡誌」では「古記に曰く本山に山神ありて半僧坊と號す一山を鎮護す 衆徒の濫悪ある時は必ず威靈あり」など数説の由来を取り上げている。いずれにせよ、この地は方広寺の創建以前より霊場であったと推察される。この半僧坊大権現が火防の神として崇敬を集めるようになったのは、明治中期以降のことで1881(明治14)年の山林大火の際に多くの建物が焼失したが、無文禅師(諡名:円明大師)の墓所と七尊菩薩堂、半僧坊真殿などが焼け残ったことによるという。
*5 七尊菩薩堂(重要文化財):1401(応永8)年建立の棟札を有する。一間社流造、こけら葺きの木造の神社建築で七神を合祀する鎮守堂(富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神)。       
*6 火防祭:火防の神とされる半僧坊で「家内安全、無病息災、火災除け」を祈願し、裸足で神火を渡る「火渡り」などが行われる。
*7 五百羅漢:宝暦(1751~1764)年間から三河の石工によって彫られたもので1770(明和7)年に完成したという。なお、「引佐郡誌」では「安永年間(1772~1781年)三生院住持拙巌の創始に係る」としている。五百羅漢は参道の南側の下を通る裏参道などにもあり、境内各所に鎮座する。

あわせて行きたい