龍潭寺りょうたんじ

天竜浜名湖鉄道金指駅から北西へ約2.5kmにある井伊家*1のゆかりの古刹。臨済宗妙心寺派。
 寺伝には行基の開山と伝えられており、古くから地蔵寺と称し信仰の場となっていた。中世には井伊家の祖、井伊共保(1010~1093年)の法名にちなみ自浄院と号し井伊家の菩提寺になったという。また、江戸中期の「遠江国風土記伝」では、宗良親王*2の陵墓があるとされ、親王の法号から冷湛寺という寺院もこの地にあったとしており、両寺が併存していたのではないかとも考えられている。
 1507(永正4)年あるいは1535(天文4)年の両説あるが、井伊直平、直宗に招かれた黙宗瑞淵により両寺の寺域を龍泰寺とし、さらに1560(永禄3)年に井伊直盛の法号にならって、寺号を龍潭寺と改めている。このため、同寺では開祖は黙宗としている。井伊家が江戸期に入り彦根に移るまで同家の菩提寺であったため、井伊家ゆかりの品も保存している。彦根にも井伊家の菩提寺として分寺され、同じ寺号を名乗っている。                                                             
 3万m2余りの緑深い境内には江戸時代に建立された本堂*3、開山堂、総門、庫裏、霊屋などが建ち並び、墓所には井伊直弼寄進の宗良親王の尊牌が祀られ、井伊共保、直盛、直虎などの墓もある。また、庭園は江戸時代初期の小堀遠州*4作庭と伝えられている。本堂の北庭として、築山の麓には東西に心字池を配し、江戸期の池泉鑑賞式庭園の典型的な形式とされる。同寺裏手には宗良親王を祭神とする井伊谷宮もある。
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みどころ

最大のみどころは、小堀遠州の作庭と伝えられる庭園。細長い池を前に3つの築山に多くの枯滝を表わす石組が配され、春のサツキ、秋のドウダンなどの植栽が四季折々の風趣を供している。江戸期の池泉鑑賞式庭園の基本形式を備えており、他の庭園に大きな影響を与えたと言われている。
 境内、伽藍も、井伊直虎、直弼などで知られる名門井伊家の菩提寺としての風格があり、また、周辺にも井伊家や宗良親王関連の史跡、遺跡があり、歴史散策も面白い。
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補足情報

*1 井伊家:井伊家の創始は、「遠江国風土記伝」によると、正暦年間(990~995年)に九条家の一族の藤原共資が遠江国井伊郷へ遠江守として赴任し、「寛弘七(1010)年正月朔日、一男生于井邊、汲井水用産湯、長名備中守藤原共保、即共資之養子也」(井戸辺で誕生した男子を養子として迎え、それ子が後の藤原共保である)とし、その共保が井伊家の祖となったとしている。この井戸があった場所が龍潭寺門前だったと伝えられている。井伊家は当初今川家に仕えたが、井伊直政が徳川家康に信任され、1590(天正18)年に上野国箕輪城主となり、その後、近江国の佐和山城主、彦根城主に転封し彦根藩30万石を代々統治した。井伊家は江戸幕府の譜代大名のなかでも最重鎮で、5名の大老を輩出し、幕末に桜田門外の変で横死した直弼もその一人である。
*2 宗良親王:1311(応長元)~没年不詳。後醍醐天皇の第4子といわれ、天台宗座主。父帝の討幕運動に参加、一時、讃岐に配流。その後還俗し、南北朝期には遠江から信越方面を転戦。この地あるいは信州にて没したとも伝えられているが不詳。
*3 本堂:1676(延宝4)年、井伊家27代(彦根藩4代藩主)直興の寄進により再建。禅寺の典型的な方丈造り。大正年間と2008(平成20)~2012(平成24)年に解体修理を行っている。また、仏殿に使用されていたという江戸時代中期左甚五郎の作と伝えられる蛙股の彫り物 「恙なしの彫刻」「龍の彫刻」 も遺されている。                                                                                   *4 小堀遠州:1579(天正7)~1647(正保4)年。武将(遠州守)、茶人、造園家で茶道遠州流の祖。出身は近江。名は政一、号は宗甫、孤篷庵。徳川家に仕え、作事奉行を務め、建築・造園に優れた才能を発揮した。寺伝では同寺の庭園は小堀遠州作と伝えられている。