牧之原の茶畑まきのはらのちゃばたけ

牧之原は静岡県の中南部、標高100~200mの広大な台地で、延々と茶畑がつづく日本一の茶どころである。島田市金谷地区を軸としてヤツデの葉のような地形が遠州灘に向かって広がり、最南の御前崎までは28kmほどある。年間平均気温14.3℃、雨量も比較的多いという気象条件は茶の栽培に適し、現在、台地全体での茶畑は5千万m2にも及び、静岡県の茶栽培面積のおよそ30%を占める。静岡県での茶栽培の歴史*1はすでに中世から行われているが、急激に生産が拡大したのは海外輸出の始まった幕末からである。                                          
 1869(明治2)年、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が静岡へ移住した際、付き従ってきた旧幕臣225戸が徳川家、新政府の援助のもと入植*2し、さらに2年後、徒渉制度廃止で失業した大井川川越し人足が入植し開墾に携わり、牧之原台地での茶栽培が始まった。離農する士族は絶えなかったが、地元農民も開墾に加わり、明治の半ばには製茶機も発明され経営は軌道にのった。その結果、1917(大正6)年には3万tを超える日本の輸出茶のうち5割を牧之原産の茶が占めるようになった。
 製茶の機械化がさらに進むとともに、摘茶の動力化なども図られ、「日本一」の座を揺ぎないものとしている。
 一部の茶園では、茶摘み体験や工場見学、茶の試飲などを楽しめる施設がある。また、東名高速道路相良牧野原インターチェンジから車で約10分の場所には「ふじのくに茶の都ミュージアム」*3もある。
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みどころ

手入れの行き届いた、見渡す限りの茶畑が大きくうねる丘陵を覆い、場所によってはその先に雄大な富士が姿をみせるという素晴らしい農業景観である。この農業景観を眺望するには、島田市にある「ふじのくに茶の都ミュージアム」や牧之原市の布引原など、台地の各地にビューポイントがあり、富士山の眺望と農業景観がコラボするポイントもあるので、車で探してみるのも面白い。
 また、茶摘み体験、手もみ体験や工場見学、お茶の試飲ができる施設もあり、幅広い層が楽しめる場所でもある。
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補足情報

*1 静岡県の茶栽培の歴史:日本における茶栽培の歴史は古く、静岡においても中世から始まっているが、静岡の茶が商品として流通しはじめたのは、慶長元和年間(1596~1624年)に駿府に茶問屋が生まれたのが起源といわれている。江戸後期の『駿河国新風土記』でも「慶安(1648~1652年)年中御高帳」のなかに駿河国安部郡で茶の取引きの記録があったとしている。
俳人松尾芭蕉が1694(元禄7)年に「駿河路や花橘も茶の匂ひ」と詠んだといわれる島田宿のある志太郡では、北部山間において古くから自生するものはあったが、江戸期に入ってから近江の茶種が移入され元文年間(1736~1741年)になって普及し、文久年間(1861~1864年)には郡全体に広まったという。牧之原がある榛原郡の南部では「安政前後に茶樹は牧之原其他各所に散在して多くは畑の畦畔、若くは山畑等の一部に境界の如く點々栽植せられ、之を摘採して自家の飲料に供せるに過ぎざりき」だったと、江戸後期までは必ずしも商品化が進んでいなかったことが、大正年間発行の『静岡県茶業史』に記されている。これが幕末から海外への輸出が盛んになったことによって大規模な茶栽培が行われるようになり、静岡の生産量は明治、大正期に飛躍的に拡大した。昭和初期になると、浪花節「清水次郎長伝」や新民謡「ちやっきりぶし(ちゃっきり節)」などにより全国に喧伝され、富士山と広々とした茶畑のイメージが定着し、静岡茶のブランドは確固たるものになった。
*2 入植:この入植に労をとった勝海舟は、回顧談である『海舟座談』で牧之原の開墾について「茶を植へた所が、大相よくできた…中略…横濱へもつて來て、貿易をするようになった。實に赳々たる武夫が白髪になって、日にやけて居るのなど、夫は實に哀れなものだ」と、旧幕臣が開墾、開拓に携わった労苦を思いやっている。 その労苦に対し、1878(明治11)年の明治天皇巡行で、「今日牧野原茶園の盛況は藩士が刀剣を抛ち来秬を把り開墾に従事したる結果にして其功勞洵に大いなり」と言葉をかけられている。                                                    
*3 「ふじのくに茶の都ミュージアム」:茶業やその歴史・文化を紹介する展示のほか、茶摘み・手もみ体験などができる。さらに、国内外の茶業関係者やお茶愛好者を対象に研修会等も開催している。