ぎふ長良川の鵜飼ぎふながらがわのうかい

長良川が夕闇に閉ざされるころ、かがり火を赤々と水面に映して、鵜舟が川を下ってくる。鵜舟は長さ約16mの大型のもので、鵜匠一人、中乗りと艫(とも)乗りの船頭二人が乗り込む。鵜匠は舳先で手縄を付けた10~12羽の鵜を巧みに操り、鵜を引き上げて呑んだ魚を吐かせる。中乗りは捕獲した魚や器具を扱い、艫乗りは船尾で棹をとる。舳先ではかがり火をたき、鵜匠は風折烏帽子(かざおりえぼし)に紺麻のひとえ、腰蓑を付け、足半(あしなか)をはく。この舎人(とねり)風の装束は、鵜飼がむかし宮中行事の一つであったころの名残をとどめるといわれる。(開催期間5月11日~10月15日)
 鵜飼の歴史は古く、『日本書紀』に「宇加比」または「鸕養」と記されているところから、古来漁法の一形式として各所で操業されていたものと思われる。『和名抄』には延喜年間(901~923年)にすでに長良川付近に7戸の鵜飼があったと明記されている。織田信長・徳川家康も鵜飼を観賞し鵜匠を優遇した。岐阜市長良川の鵜匠(6人)は代々世襲制で、「式部職鵜匠」*という宮内庁の職員である。
 鵜飼には夏の夜、火を点してする夜河(よるかわ)と昼間、年間を通じて行う昼河(ひるかわ)、魚を網に追い込む追い鵜、直接魚を取る獲り鵜、徒歩(かち)使いと船使いなどがあるが、現在長良川で行われる鵜飼は夜船を浮かべる獲り鵜である。鵜は野性の海鵜を訓練して使い、魚を呑み込まないで喉に貯えておくように軽くしばった首結いの縄と、腹掛けの縄を付け、これに手縄(たなわ)を結ぶ。現在、鵜飼は、岐阜県関市・愛知県犬山市等でも行われている。
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みどころ

鵜飼は古く日本書紀、古事記にも記述があり、ぎふ長良川の鵜飼は702(大宝7)年の資料に見られ、今日まで岐阜の夏の風物詩として受け継がれてきた。かがり火が長良川の川面に映え、風折烏帽子に腰蓑姿の鵜匠が鵜を自在に操って鮎を狩る様は、見る者を風雅な幽玄の世界に誘う。鵜飼の圧巻は総がらみという巻き狩り漁法で、鵜舟六隻が横隊を組み、ホウホウと掛け声をかけ、舷側をたたいて鵜を激励しながら一斉に狩り下る豪快なものである。清流長良川で自然と人が織りなす古典絵巻の風情を味わいたい。
 江戸時代の俳聖・松尾芭蕉は「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」と詠んだ。
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補足情報

*式部職鵜匠:宮内庁職員の式部職鵜匠が、長良川の皇室専用の御料場である長良古津地区で、皇室に納める鮎を捕る「御料鵜飼(ごりょううかい)」は、鵜飼シーズン中に8回行われる。
関連リンク ぎふ長良川の鵜飼(WEBサイト)
参考文献 ぎふ長良川の鵜飼(WEBサイト)
『ぎふ長良川の鵜飼』パンフレット 岐阜市
『長良川うかいミュージアム』パンフレット

2024年02月現在

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