高山祭たかやままつり

春の「山王祭(さんのうまつり)」と秋の「八幡祭(はちまんまつり)」、二つの祭りをさす総称。
 高山祭が始まったのは、金森長近が飛騨を平定し統治していた1586(天正14)年から1692(元禄5)年の間といわれる。以後、江戸幕府直轄地(天領)になり、1718(享保3)年頃に祭用の山車(だし)である「屋台(やたい)」が登場。更に、形や構造が整って豪華な屋台になるのは文化、文政(1804年以降)の頃からである。
 春の山王祭は日枝(ひえ)神社の例祭で4月14・15日、秋の八幡祭は櫻山八幡宮(さくらやまはちまんぐう)の例祭で10月9・10日に行われる。祭初日は神事のあとに、神輿(みこし)を中心に獅子、闘鶏楽(とうけいらく)、裃姿(かみしもすがた)の警固(けいご)など伝統の装束をまとった数百名の大行列が町内を巡行する。夜、集結した屋台は提灯をともして町を一巡し、曳き別れ歌「高い山」の調べとともに、各屋台蔵へ帰って行く。翌日、大行列は中橋詰・高山陣屋前のお旅所(秋は八幡宮)から出発し町内を巡行して、日枝神社(秋はお旅所を経て八幡宮)に向けて戻って行く。
 屋台は春祭12台、秋祭11台が曳き出され、所定の場所に両日とも「曳き揃え」られる。秋祭のみは初日の午後に「屋台曳き廻し」が行われ、4台の屋台が八幡宮参道北の町通りを巧みに操られ迫力満点で進んで行く。4台のうち神楽台・鳳凰台は毎年。残る2台は布袋台を除く屋台から交代で参加する。からくり奉納*は春祭・秋祭の両日とも午前と午後に1回ずつ披露される。
 なお、櫻山八幡宮境内の屋台会館では、秋祭の屋台11台の中から4台ずつが交互に展示されている。
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みどころ

祭の屋台は、いずれも律令時代(645年大化の改新~10世紀頃)から培われた飛騨匠*の伝統をみごとに開花させた凝った造りで、「動く陽明門(日光東照宮の極彩色彫刻群で埋め尽くされた門)」といわれるほど絢爛豪華なものである。巧みな人形の動きを披露するからくり奉納や、仕掛けが施された戻し車などにも、匠の技が生きている。
 高山が、江戸時代に天領であったことが商人達の繁栄に繋がり、江戸の粋と京の雅が融合し発展していく祭を支える大きな力となった。財力のある旦那衆(だんなしゅう)と呼ばれる豪商が中心となり屋台の改修に金を出し、匠たちに技を競わせた。全体の形の美しさを整える、彫刻・車に凝る、加えて背面や中段の幕に京都西陣織を使う等、屋台は益々きらびやかになった。
 高山祭は、多くの見学客が国内外から集まり、その祭絵巻の世界に酔いしれる。彫刻や屋根・幕など特徴を凝らし装飾された屋台、伝統的装束をまとった大行列等、古い町並で展開される祭の奥深さを感じたい。
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補足情報

*からくり奉納の場所と屋台:春祭は中橋詰・高山陣屋前、三番叟と龍神台と石橋台の3台。秋祭は八幡宮境内、布袋台のみだが、男女2人の唐子(からこ)人形が、順番に五本の綾(ブランコ)を回転しながら飛び伝って、布袋和尚の肩に飛び乗る大技が披露される。
*飛騨匠:律令時代、山国で木工が発達した飛騨地方では、租税の庸調のかわりに匠丁を朝廷に貢上する制度があった。この匠丁は飛騨匠と呼ばれ、都の社寺・建物の造営に携わったが、技術が優秀でのちには大工の代名詞ともなった。