高山三町の町並みたかやまさんまちのまちなみ

市の中心部を流れる宮川(みやがわ)の東、南北に連なる三本の通りを総称して「三町(さんまち)」という。三町は、さらに安川通りを境に上町と下町に分かれていて、南側が上一之町(かみいちのまち)から上三之町(かみさんのまち)、北側が下一之町(しもいちのまち)から下三之町(しもさんのまち)である。江戸時代末期から明治時代*に再建された、昔ながらの風情がある町並みがあり、それぞれ国が選定した重要伝統的建造物群保存地区*を含んでいる。
 江戸時代は商人町として発展した。「旦那衆(だんなしゅう)」と呼ばれた豪商をはじめ町人の屋敷が、約4m幅の道にずらっと並んでいた。町家は、木造、切妻屋根、平側に入口、中二階建て。高山陣屋より高くならないように軒(のき)は低く、深いひさしがあり、目隠しと明かり取り用の格子窓を持つのが特徴である。表側は質素だが、内部は贅をつくした造りになっている。軒下には防火用の用水路が流れている。造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が吊られている。
 現在では、上町には豪商の土蔵を利用した「飛騨高山まちの博物館」をはじめ趣ある食事処、茶店、「みたらしだんご」「飛騨牛のにぎり寿司」など持ち帰り飲食店、土産物屋、和雑貨店があり、景観に合った建物の銀行や交番も見られる。下町は、市民生活関連の店舗が目立ち、時計、表具、農機具、文房具、家具などの店、料理屋などが昔ながらの町並みに並ぶ。大新町(おおじんまち)には、両替商と雑貨屋を営んでいた日下部家住宅や造り酒屋だった吉島家住宅がある。
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みどころ

現在の市街地は、1605(慶長10)年に完成した金森長近の居城の麓に営まれた城下町が次第に発展したものである。
 織田信長と豊臣秀吉に仕えた武将、金森長近が、宮川と江名子川(えなこがわ)に囲まれた平坦部に、自らゆかりの京都の町に似せ、町割を行った。城に近い高台が武家地、京の賀茂川にあたる宮川に沿った低地が町人町に区画された。町は南北に連なる通りを中心に造られ、東西に横丁ができ、梯子状に条筋のある機能的な町並みであった。1692(元禄5)年金森氏が領地替えされ、幕府直轄地(天領)になる。城下町が商人や職人の町となり、経済活動が旺盛で飛騨の中心地として発展した。
 現代では、先人達の貴重な歴史遺産を活かした町並み保存と町づくりがされている。1965年(昭和40年)頃から、町並み保存の市民運動が、高山祭の地区ごとの組織「屋台組」を中心に盛り上がった。町家の電線を軒下に配線して電柱を撤去したり、自動車の進入防止の自主交通規制などの事業を行った。現在は、高山祭の屋台組を基に10を超える「町並保存会」が、住民ぐるみで日常的に連携し、創意工夫しながら、町並みの景観を保つことに尽力している。例えば、火に弱い木造構造の町家群を守るため、初期消火に当たれるように火災近隣通報システムの導入や消火訓練を徹底している。
 美しい町並みを保存するために、官民ともに町並みの統一感を大切にして、景観保全に取り組んでいる。こうした地元の絶ゆまない努力により、歴史・文化的な価値が高くて美しい高山の魅力が保たれ向上されている。
 高山は、歴史がそのまま息づいていて、色々な「和」で迎えてくれる。訪れると居心地が良くて歩きたくなる町。また来たくなる。
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補足情報

*江戸時代末期から明治時代に再建:何度も大火災があり、1832(天保3)年の大火以後に上三町地区は町家を再建、下町大新町は1875(明治8)年の大火以後に再建されている。
*重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区):市町村が、城下町、宿場町、門前町など歴史的な集落・町並みを「伝統的建造物群保存地区」と定め保存を図る。国が特に価値が高いと判断して「重要伝統的建造物群保存地区」に選定。
高山市三町伝統的建造物群保存地区(上一之町、上二之町、上三之町、片原町、神明町4丁目の各一部)1979年選定
高山市下二之町大新町伝統的建造物群保存地区  (下一之町、下二之町、下三之町、八幡町、大新町1丁目、大新町2丁目、
大新町3丁目、大新町4丁目の各一部)2004年選定