高遠城たかとおじょう

長野県伊那市の内東部、中央・南アルプスを遠望する高台の上にある。1547(天文16)年、武田信玄*の命によって家臣の秋山信友・山本勘助*らが築城したという。1582(天正10)年に高遠城主であった仁科盛信(武田信玄の五男)は、敵方の総大将であった信長の嫡男、信忠からの降参の要請に応じず城に籠り、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交えた。城は一日と持たず、多くの家臣は討ち死、盛信も自害して高遠城は落城した。
 当時の築城技術に武田流兵法を取り入れた堅固な城も、明治維新時に藩校進徳館*を残して建造物・樹木は競売にかけられた。その後高遠城跡の公園化が決まり、本丸と笹曲輪、南曲輪、勘助曲輪のエリアが公園となった。
 地元では、公園に花や実のつく樹を植えたいと考え、1876(明治9年)に桜の馬場のサクラが移植された。この時植えられた桜が、現在の高遠の桜のルーツとなっている。
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みどころ

公園内にはコヒガンザクラ約1,500本が植えられ、「天下第一の桜」といわれ桜の名所として有名である。
 本丸にある太鼓櫓は明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれていた。江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の中にあったが、1877(明治10)年頃に現在の位置に太鼓櫓が建てられてからは、1943(昭和18)年まで朝6時から夕方6時まで偶数時にここで太鼓が打ち鳴らされて時を告げていた。この台地からは中央アルプスがきれいに望め、絶好の展望台にもなっている。
 城に隣接して信州高遠美術館や高遠町歴史博物館があり、あわせて訪れたい。(林 清)
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補足情報

*武田信玄:1521~1573年。武田信玄は、1541(天文10)年に信虎を退隠させた後、甲斐国を掌握し、隣国信濃国に進出。北信地方を除き平定したもの、上杉謙信との対決を招き、数度にわたり「川中島の合戦」を戦うことになった。その後、隣国との関係を固め、1572(元亀3)年上洛を目指し、三方ヶ原の戦いなどで徳川軍を破り三河まで達したが、翌年持病のため伊那駒場で没した。戦国武将として名高い信玄であるが、治政においても手腕を発揮し、とくに釜無川(富士川の上流)に氾濫を抑えるために独創的な信玄堤を築き、新田の開発を積極的に行うとともに、甲州金で知られる金山の開発、商・職人集団の編成や城下町の拡充に努めた。
*山本勘助:戦国時代の武将。武田信玄の足軽大将の一人。従来は勘助の実在そのものを疑問視する意見が強かったが、近年、菅助と明記された武田晴信(信玄)書状が発見され、その実在が確かめられた。『甲陽軍鑑』には勘助の活躍が随所にみられ、そこでは武田家の信濃侵攻の軍師格として登場しているが、そのすべてが事実とは思えない点も多い。(参考:『国史大辞典』)
*藩校進徳館:現在の建物は文学部のもので木造平屋建、茅葺、かつて使われていた大量の書籍は高遠町図書館に収蔵されている。進徳館は高遠藩の藩校の遺構として貴重な存在で長野県内では松代文武学校と進徳館の2例しかない事から、「高遠城」の一部として1973(昭和48)年に国指定史跡に指定されている。
関連リンク 伊那市(WEBサイト)
参考文献 伊那市(WEBサイト)
「高遠城跡」パンフレット 高遠町歴史博物館(伊那市)(WEBサイト)
「長野県の歴史散歩」山川出版社

2022年09月現在

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