平泉寺白山神社(白山平泉寺)へいせんじはくさんじんじゃ(はくさんへいせんじ)

勝山の東南約4kmの山腹、白山神社の境内の一帯はかつて中世に隆盛を誇った天台宗平泉寺のあったところである。寺跡周辺は源平時代に城として利用されたこともあり、「白山平泉寺城跡」として史跡に指定されている。
 白山神社は養老年間(717~724年)、泰澄*の草創と伝えられ、平泉寺はその別当寺として修験僧多数を擁して繁栄し、室町前期には48社、36堂、6,000坊が山谷に満ちたといわれる。僧兵集団を背景としたその動向はしばしば越前の争乱の目となり、時の権力者の命運を大きく左右した。南北朝の新田義貞、戦国時代の朝倉義景らが平泉寺の離反に遭い、いずれも非業の死を遂げている。また、丸岡豊原寺と結び、蓮如が去った後の吉崎御坊の破却にも一役買っている。しかし、1574(天正2)年一向一揆*軍の攻撃により全山灰燼に帰し、昔日の面影は全く失われた。
 菩提林と呼ばれる老杉に包まれたおよそ2kmの参道をたどると、鳥居下の広場に達する。参道に並行して、むかし修験僧が、九頭竜川から石を手送りして築いたという旧参道の石畳が残っている。左手奥に社務所と旧玄成院庭園*があり、なお杉木立の下を登っていくと、みたらし池*を前にして拝殿が立つ。本殿は拝殿の背後の石垣上に左右に摂社を従えて立ち、三間社入母屋造、榑(くれ)葺、江戸時代の建築といわれ、質素なたたずまいである。この本殿・拝殿のあたりが旧平泉寺の中心域と推定され、拝殿の左右には、苔むした礎石が散在している。散在する礎石から旧拝殿は左右が81mもあったと推定される。
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みどころ

周囲は深い杉木立で、地面を覆う厚い苔が木もれ日に映えて美しい。拝殿まで2kmに渡る参道を、美しい苔を見ながら、静寂な雰囲気のなかを、過去の歴史に思いを馳せ、ゆっくりと歩みながら、参拝してほしい。(溝尾 良隆)
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補足情報

*泰澄:682~767年。継体天皇とともに越前の古代史を彩るなかば伝説上の高僧。682(天武10)年、現在の福井市三十八社に生まれ、越知山で修行をする。平泉寺、那谷寺など50近い寺社の開創、粟津温泉の開湯などの業績から「越の大徳」(こしのだいとこ=越は北陸の古称)とあがめられた。
*一向一揆:1471(文明3)年、越前吉崎へ進出した本願寺八世蓮如の布教によって、浄土真宗は北陸一円に浸透した。一向宗とは本来一遍が説いた時宗を指したが、浄土真宗の普及とともに両者が混同されるようになったものである。この宗教によって結束された組織はかつてない団結力をもって領主層へ抵抗を示すまでに成長していった。1481(文明13 )年に井波瑞泉寺と若松本泉寺が福光城主石黒光義を倒し、1488(長享2)年には、加賀でそれまで度々衝突していた富樫政親を滅ぼして国衆と農民・大坊主らによる「農民の持ちたる国」が出現する。つづく1490(延徳2)年には能登、1506(永正3)年には越前で一揆の動きがみられた。加賀に遅れること約一世紀、朝倉氏の滅亡した越前でも短命であったが一揆による政権が生まれ、北陸以外では三河、伊勢長島など各地に大規模な一揆が勃発した。しかし、この一揆の勢力も多くの内部矛盾を含んでいた上、激しい織田信長の北陸進撃の前に崩壊をはじめた。1570~1580(元亀元~天正8)年の石山合戦の終結とともに全面的な終息状態を迎えた一揆は、豊臣秀吉の刀狩りによって以後全くその影を潜めることとなる。
*旧玄成院(きゅうげんじょういん)庭園:名勝。白山神社社務所の東側にあり、旧平泉寺玄成院書院の旧庭園である。1520~1530(永正17~享禄3)年の築庭といわれる1,070m2の池泉観賞式庭園で、前景に池泉、中景は花木と苔、遠景に築山と石組を配している。1434(永享6)年銘の五重石塔を点景とし、背景はうっそうとした杉木立である。特に36種類にのぼる苔がみごとで、この庭のみどころとなっている。
*みたらし池:扇状地に多い湧水池で、平泉の名の起因とされる。池の中央に白山大神が泰澄にご託宣を与えたという影向石がある。
関連リンク 白山平泉寺(WEBサイト)
参考文献 白山平泉寺(WEBサイト)
国史跡白山平泉寺旧境内(勝山市)(WEBサイト)

2022年06月現在

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