兼六園けんろくえん

兼六園 内の資源

金沢市内中央部、金沢城跡の南東に隣接する、江戸時代を代表する大名庭園。築山や茶屋が点在し、曲水が巡る美しい林泉回遊式庭園で、日本三名園*のひとつに数えられている。1676(延宝4)年より5代藩主綱紀(つなのり)の時代に最初の庭(蓮池庭)が造られ、1822(文政5)年に12代藩主斉広(なりなが)が竹沢御殿を建てるに際し、御殿に付属した庭の整備を行った。さらに1837(天保8)年、13代藩主斉泰(なりやす)が竹沢御殿を壊して霞ヶ池を拡張しほぼ現在の形となった。
 兼六園の名は松平定信*が宋の李格非(りかくひ)の「洛陽名園記」にちなみ、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼備する名園であるとして命名したとされていたが、近年の調査により、松平定信はのちに正門に掲げられた「兼六園」の扁額の揮ごうに携わっただけと明らかになった。とはいえ、その名に恥じず、10万㎡を超える園内には池や滝、多くの名木は見事。随身坂にある兼六園管理事務所は、もと金沢市内の大手町にあった津田玄蕃(つだげんば)邸の一部を移築したもので、一万石の家格の雰囲気をよく伝えているとともに、「金沢藩医学館」の遺構としても重要だ。このように、大名庭園としての兼六園は維新後、都市公園として公開・活用され、文明開化の舞台として各種公共施設が置かれたものの、大正後期以降には、「史蹟名勝天然紀念物保存法」にもとづく「名勝」に指定されたこともあり、「江戸時代の景観」への修景が進むことになる。
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みどころ

今日特別名勝に指定されている22個所の庭園うち、6つある近世の大名庭園のなかでも、兼六園は管理保護が徹底し、かつての姿を残すもっとも優れた庭園といわれている。
 日本海方面や卯辰山・医王山(いおうぜん)方面の眺望もすばらしく、名高い徽軫(ことじ)灯籠*をはじめ、海石塔・雁行橋・黄門橋、塩釜桜や唐崎松などの名木、茶室夕顔亭*などみどころも多い。季節的にも春の桜につづいて、ツツジ、カキツバタ、ハギ、紅葉と華やかで、冬の雪吊り*も独特の美しさをみせる。もうひとつの特徴は、高台にありながら、豊富な水を利用して園内を流れる曲水の存在だ。これだけの規模の庭園が高台の傾斜地にあるのは珍しく、それを可能にしているのは、水源となる辰巳用水*によって豊富な水量が確保されているからだ。兼六園の名の由来となっている「水泉」と「眺望」は、本来は矛盾するものだが、辰巳用水によって二つの美点の共存が可能となった。               
 平成の修築により、千歳台西側の修景、増築がすすみ、梅林の春の景色や時雨亭での休憩など魅力が増した。時雨亭は5代藩主綱紀が建てた園内の別荘で、維新後取り壊されたものの、2000(平成12)年に、新しい庭園の完成とともに再現された。亭内では抹茶・煎茶(有料)がいただける。
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補足情報

*日本三名園:金沢兼六園・水戸偕楽園・岡山後楽園。当初は、日本三公園と称した。
*松平定信:1758~1829年。田安宗武の子。徳川家斉の下で老中となり寛政改革を行う。奥州白河の藩主で和歌・絵画をたしなむ教養人としても優れ、楽翁と号する。「宇下人言」などの著書を残した。
*徽軫灯籠:足が二股になった灯籠で、その姿が琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているためこの名がついた。
*夕顔亭(ゆうがおてい):かつて4つあった数寄屋造りの茶室のうち唯一現存する。宝形茅葺屋根の2棟がずれるように並ぶ。3方に深い土間庇をもち、躙口(にじりぐち)がなく、2方を障子としている。内部は3畳台目に相伴席を有する。縁先手水鉢(ちようずばち)は後藤程乗(ていじょう)の作といわれ、「伯牙断琴(はくがだんきん)の手水鉢」の名がある。翠滝(みどりたき)をみるために設けられたので「滝見の御亭」ともいわれた。茶室内の壁に瓢箪の古名である夕顔の透彫りがあることが名の由来。
*雪吊り:樹木を雪の重みから守るため、縄で枝を1本ずつ吊り支えること。
*辰巳用水(たつみようすい)石管:辰巳用水とは金沢城へ水を引くため、1632(寛永9)年、和算と測量に精通していたといわれる板屋兵四郎(?~1653年)が作った用水である。最初は松の木を掘り抜いて樋としたが、のち石管に変えられた。その一部が兼六園管理事務所の前庭にある。犀川上流より約11kmの水路を引き、その間に約4kmのトンネルを掘るなど、高度な技術がみられ、今も清流が流れている。

兼六園 内の資源