新発田城跡しばたじょうし

鎌倉時代初期、新発田氏*による築城といわれ、代々、新発田氏居城となっていたが、上杉景勝に反乱を起こし敗れ、落城。新発田氏は滅亡した。そのあと、1598 (慶長3)年、6万石の所領を得て入封した溝口秀勝*が、新発田氏の居城を一部取り入れて造られた平城で、新発田川の形成した広い自然堤防上に位置した。舟形城・菖蒲城・狐尾曳ノ城*など数々の異名をもつ。城は天守閣の代わりに棟が丁字型になった三階櫓が本丸に置かれ、屋根に三尾の鯱が配置されていた。1872(明治5)年、廃藩後に、明治政府の城郭破却令によって、建物の大部分は壊され、堀と石垣の一部、表門、旧二の丸隅櫓が残るのみになった。表門・隅櫓は、下部が雪国特有の瓦張りなまこ壁になっている。
 2001(平成13)年、市民を中心に「新発田城復元の会」が設立され、2004(平成16)年、三階櫓と辰巳櫓の2棟の復元が完了した。
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みどころ

石垣と4つの櫓がある新発田城を表門から中に入ると、横への広がりはあるが、奥行きがなく、「張り子の虎」のような感を抱く。それは、本丸と二の丸の約半分が、廃城令後に陸軍省の管轄となり、第二次大戦まで歩兵第16連隊の兵営として使われ、1953(昭和28)年から陸上自衛隊が駐屯し、現在に至っているからである。隣接して、陸上自衛隊が管理運営している「白壁兵舎広報史料館」がある。(溝尾 良隆)
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補足情報

*新発田氏:室町時代頃より、代々新発田城を本拠に、新潟市から三条市まで及ぶ周辺を支配していた。新発田長敦の頃は上杉謙信に従うが、弟重家のとき、上杉景勝に対抗。五十公野城、新発田城が落城し、越後国の領主として滅亡した。
*溝口秀勝:新発田藩の初代藩主。織田家の家臣。秀吉・家康に仕える。
*新発田城が数々の異名を持つ理由は、次のとおりである。
・舟形城:本丸が舟の形をしている。
・菖蒲城:周囲の湿地にアヤメが咲いていたから
・狐尾曳ノ城:縄張りを命じられた長井清左衛門が設計に苦労しているとき、一匹の狐が現われ、雪の上に尾を引きながら図を示してヒントを与えたという伝えから。
関連リンク 新発田市(WEBサイト)
参考文献 新発田市(WEBサイト)
しばた観光ガイド(一般社団法人新発田市観光協会)(WEBサイト)
パンフレット「新発田城」

2022年06月現在

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