妙宣寺(阿仏房妙宣寺)みょうせんじ(あぶつぼうみょうせんじ)

佐渡に配流された順徳上皇*の供をしてきた北面の武士遠藤為盛(えんどうためもり)は、上皇崩御ののち、出家して阿仏房日得(にっとく)となった。その後、流されて塚原に謫居中の日蓮に、妻千日尼と共に帰依し、いろいろと尽した。その子盛綱が父母の志を継いで、その住居を寺としたのが始まり。
 寺地はアカマツの林の中にあり、江戸末期の本堂・祖師堂・宝蔵・五重塔・仁王門などが整然として並ぶ。正中の変*で流罪となった日野資朝(ひのすけとも)*の墓、その子阿新丸(くまわかまる)の隠れ松などがある。なお、宝蔵に収められた細字法華経*は佐渡における資朝のたった一つの遺品である。山門近くにある五重塔は県下で唯一の五重塔。
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みどころ

仁王門をくぐると、すぐに右手に、高さ24.11mで、均整がとれて美しい五重塔が見える。1828(文政11)年、相川の宮大工が建立したものである。参道は右に折れると、ふたたび五重塔、そして日野資朝の墓、山門となる。参道は本堂に向かう。左手に神堂、宝蔵、祖師堂を見ながら、本堂に達する。気持ちのよい参道である。(溝尾 良隆)
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補足情報

*順徳上皇:第84代の天皇(在位1210~1221(承元4~承久3)年) 。後鳥羽天皇の第3皇子。父の鎌倉幕府打倒計画に参画し、1221(承久3)年、 皇子懐成親王 (仲恭天皇)に譲位して挙兵したが敗れ、佐渡に配流された。在島21年余ののちに没した。
*正中の変:1324(元享4・正中元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画して、京都の六波羅を襲おうとしたが、事前に発覚した事件。首謀格の日野資朝は佐渡へ流罪、日野俊基は鎌倉へ下される途中で斬られた。
*日野資朝:正中の変の責任を問われて、1325(正中2)年8月配流された。守護代本間山城入道に預けられ、壇風城(竹田城という説もある)に七年間幽閉され、斬罪に処された。資朝の次男阿新丸の報復物語が、『太平記』に記されている。
*細字法華経:資朝が両親の冥福を祈って写経した法華経1部8巻69,384字で、縦5.8cm、長さ14.4m。1331(元徳3・元弘元)年の奥書があり、資朝はこの1年後に処刑されている。