浅草
東京メトロ、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の浅草駅からすぐの場所に東京最古の寺、浅草寺がある。都営地下鉄とつくばエクスプレス浅草駅からも、それほどの距離ではない。浅草の歴史は浅草寺から始まる。628(推古天皇36)年、地元の漁師が宮戸川(隅田川下流)で聖観音を引き上げたことが縁起とされ、これが今に伝わる浅草寺の本尊である。古くから多くの参拝客でにぎわっていた浅草寺の境内に、江戸期に入ると見世物小屋が軒を並べた。明暦の大火(1657年)以降、日本橋にあった遊郭吉原は新吉原として日本堤へ移されることになった。浅草寺の裏手奥山に興行地域とパワースポットの集積地が生まれ、奥山は江戸最大の盛り場になった。門前町の仲見世*も元禄(1688~1703)から享保(1716~1735)のころに出来たといわれる。1800年代後半には猿若三座(中村座・市村座・守田座)の名で知られる芝居町もつくられるなど、浅草は庶民の娯楽を集めた盛り場として賑わうようになった。同じころにボタンとキク細工を主とした花屋敷*が誕生する。
明治期に入り、境内が公園地として整備され「浅草六区*」が誕生し、奥山芝居小屋、見世物小屋は浅草六区興行街へと引き継がれ、映画街の代名詞として多くの人々に親しまれるようになった。大正期に至り、映画などの興行場と浅草十二階と呼ばれた凌雲閣*とが人気を博し、「浅草オペラ*」が、広く大衆に愛されることとなった。浅草は時代の先端、日本の庶民文化の中心にあって、輝く町だった。1923(大正12)年の関東大震災で凌雲閣は崩壊、浅草地区では、全域に近い96 %が焼失するなど、壊滅的な被害を受けた。しかし、浅草寺の観音堂、浅草神社が奇跡的に残り、翌年には、興行街や映画街の各館が再建され、活力に満ちた町として目覚ましい復興を遂げた。
1927(昭和2)年に、東洋で初の地下鉄が、上野・浅草間に開通し、震災後の復興に貢献した。昭和の戦前には、浅草オペラ*、カジノフォーリー*、笑いの天国*などが大人気となる。バラエティーショー、ミュージカル・コメディー、ボードビルショー等、日本の大衆芸能の隆盛は浅草から始まった。
1937(昭和12)年には、六区の近くに補助いすを含めると4,800人収容の東洋一を誇る国際劇場ができた。浅草は、江戸以来の演劇娯楽のメッカとして発展し、浅草から、多くの芸能人が巣立っていった。
芸能と庶民文化の一大中心地として栄えた浅草は、1956(昭和31)年の売春防止法により、吉原が方向転換され、関係の深かった浅草への来訪者が減少した。もっとも大きな打撃は、1964(昭和39)年東京オリンピックに伴うカラーテレビの普及であった。テレビの普及とともに多数の映画館が廃業に追い込まれた。それでも1961(昭和36)年当時、六区とその周辺には、映画館22、劇場8、演芸場2,遊園場2の娯楽場がまだ存在した。しかし、1982(昭和57)年の国際劇場の閉鎖にみるように、年々、浅草から娯楽を提供する場は減っていったのである。とはいえ、これまでの固有の歴史と文化に育まれた浅草には、多種多数の店舗や食事処があり、訪れれば賑やかで楽しい町であり、加えてこの頃から浅草サンバカーニバルなど新たなイベントも開始され、国内観光のみならず、隆盛を続けるインバウンド観光における日本を代表する国際的な観光地として賑わっている。
明治期に入り、境内が公園地として整備され「浅草六区*」が誕生し、奥山芝居小屋、見世物小屋は浅草六区興行街へと引き継がれ、映画街の代名詞として多くの人々に親しまれるようになった。大正期に至り、映画などの興行場と浅草十二階と呼ばれた凌雲閣*とが人気を博し、「浅草オペラ*」が、広く大衆に愛されることとなった。浅草は時代の先端、日本の庶民文化の中心にあって、輝く町だった。1923(大正12)年の関東大震災で凌雲閣は崩壊、浅草地区では、全域に近い96 %が焼失するなど、壊滅的な被害を受けた。しかし、浅草寺の観音堂、浅草神社が奇跡的に残り、翌年には、興行街や映画街の各館が再建され、活力に満ちた町として目覚ましい復興を遂げた。
1927(昭和2)年に、東洋で初の地下鉄が、上野・浅草間に開通し、震災後の復興に貢献した。昭和の戦前には、浅草オペラ*、カジノフォーリー*、笑いの天国*などが大人気となる。バラエティーショー、ミュージカル・コメディー、ボードビルショー等、日本の大衆芸能の隆盛は浅草から始まった。
1937(昭和12)年には、六区の近くに補助いすを含めると4,800人収容の東洋一を誇る国際劇場ができた。浅草は、江戸以来の演劇娯楽のメッカとして発展し、浅草から、多くの芸能人が巣立っていった。
芸能と庶民文化の一大中心地として栄えた浅草は、1956(昭和31)年の売春防止法により、吉原が方向転換され、関係の深かった浅草への来訪者が減少した。もっとも大きな打撃は、1964(昭和39)年東京オリンピックに伴うカラーテレビの普及であった。テレビの普及とともに多数の映画館が廃業に追い込まれた。それでも1961(昭和36)年当時、六区とその周辺には、映画館22、劇場8、演芸場2,遊園場2の娯楽場がまだ存在した。しかし、1982(昭和57)年の国際劇場の閉鎖にみるように、年々、浅草から娯楽を提供する場は減っていったのである。とはいえ、これまでの固有の歴史と文化に育まれた浅草には、多種多数の店舗や食事処があり、訪れれば賑やかで楽しい町であり、加えてこの頃から浅草サンバカーニバルなど新たなイベントも開始され、国内観光のみならず、隆盛を続けるインバウンド観光における日本を代表する国際的な観光地として賑わっている。

みどころ
仲見世やかっぱ橋道具街を目的に訪れる人が多いが、浅草には、約50の商店街・商店会がある。それぞれの店が工夫をして、来訪者を迎えているので、どの商店会も特徴ある品物揃えがされている。ホッピー通り、すしや通り、食通街と銘打っているところもある。
個店では、開業百年を越えている店のなかに、どぜう店、すき焼き店、和菓子店、バー、唐辛子店などがあり、百年を超えていなくても、うなぎ、てんぷら、洋食の店が数多くあり、食事時に店を選ぶのに迷うほどだ。ほかに、手ぬぐいや太鼓、そろばん、かばん、扇など、他では見られない専門店もある。
インバウンド旅行者が増加するにつれ、低廉なゲストハウス・民泊から高額なホテルまで多種類の宿泊施設ができたため、浅草で宿泊し、朝夜の浅草を楽しむ外国人の姿が多くみられるようになったことは、新しい動きである。
個店では、開業百年を越えている店のなかに、どぜう店、すき焼き店、和菓子店、バー、唐辛子店などがあり、百年を超えていなくても、うなぎ、てんぷら、洋食の店が数多くあり、食事時に店を選ぶのに迷うほどだ。ほかに、手ぬぐいや太鼓、そろばん、かばん、扇など、他では見られない専門店もある。
インバウンド旅行者が増加するにつれ、低廉なゲストハウス・民泊から高額なホテルまで多種類の宿泊施設ができたため、浅草で宿泊し、朝夜の浅草を楽しむ外国人の姿が多くみられるようになったことは、新しい動きである。

補足情報
*仲見世:1885(明治18)年、東京府により仲見世全店の取り壊しが命じられ、レンガ造り・2階建てに建て替えられた。しかし、関東大震災で被災。1925(大正14)年に鉄筋コンクリートで再建されたが、1945(昭和20)の戦災で内部は焼けて改修。現在も使用されている。参道の左右に約89軒の店が並ぶ。
*花屋敷:開業のころ、1万7,000m2の敷地にウメ・サクラ・モミジなどの木々と四季の草花を植えた植物園であったが、1872(明治5)年ころから遊戯施設が置かれ、1949(昭和24)年に遊園地として再建された。現在も「浅草花やしき」と呼ばれるのは花園があったからである。狭い遊園地だからこそ、民家や銭湯に突入しそうなスリルを_き立てる日本最古の「ローラーコースター」などが楽しめる。
*浅草六区:1873(明治6)年、上野寛永寺境内とともに浅草寺境内も公園に指定された。1883(明治16)年に浅草寺公園は7区画に分けられた。一区は浅草寺境内、二区は仲見世、三区は伝法院、四区は大池・ひょうたん池のあった付近、五区は花やしきから本堂にかけての通称「奥山」、六区は興行街、七区は浅草馬道付近(そののち公園地から除外)。四区から六区のあたりは明治維新前までは入谷田圃につづいた浅草田圃であった。
五区奥山にあった玉乗り、軽業、こままわし、操り人形などの見世物が六区に移ってきた。そののち、六区ではいずれも日本初となる、活動写真の上映や常設映画館・電気館の開館、カラ―キネマの上映(1913《大正2》年、キリン館において)などが続き、映画館街として繁栄した。映画以外にも、寄席、小芝居、女剣劇、レビュー、オペラ、軽演劇など日本の大衆芸能をリードした。
*凌雲閣(十二階):1890(明治23)年に東京における高層建築の先駆けとなる12階建ての凌雲閣が完成。蒸気で動く日本初のエレベーター(エレベートルと呼んだ)が設置された。建物の高さは、当時国内でもっとも高い67m。エレベートルは故障が多く1年で使用禁止となり、ラセン階段で頂上まで上ることになった。
*浅草オペラ:1917(大正6)に常盤座に始まる。イタリア人ローシーが帝劇で、モーツアルトの「魔笛」を公演したが、日本人のオペラ歌手は、その域に達するには遠く及ばなかった。それを伊庭孝がコミックオペラに方向転換し、帝劇時代の歌手たちが参加して、浅草で開花した。1920年ころ、オペラの常設館となった日本館とそれに対抗する金龍館と競い合い、浅草オペラは最盛期を迎えた。
*カジノフォーリー:1930年代の浅草のエロ・グロ・ナンセンス文化を代表する。エノケンが活躍。日本最初のストリップ・ショーを演じた。
*笑いの天国:1932(昭和7)年に常盤座を本拠として旗揚げする。徳川夢声、古川ロッパ、菊田一夫らが活躍。
*花屋敷:開業のころ、1万7,000m2の敷地にウメ・サクラ・モミジなどの木々と四季の草花を植えた植物園であったが、1872(明治5)年ころから遊戯施設が置かれ、1949(昭和24)年に遊園地として再建された。現在も「浅草花やしき」と呼ばれるのは花園があったからである。狭い遊園地だからこそ、民家や銭湯に突入しそうなスリルを_き立てる日本最古の「ローラーコースター」などが楽しめる。
*浅草六区:1873(明治6)年、上野寛永寺境内とともに浅草寺境内も公園に指定された。1883(明治16)年に浅草寺公園は7区画に分けられた。一区は浅草寺境内、二区は仲見世、三区は伝法院、四区は大池・ひょうたん池のあった付近、五区は花やしきから本堂にかけての通称「奥山」、六区は興行街、七区は浅草馬道付近(そののち公園地から除外)。四区から六区のあたりは明治維新前までは入谷田圃につづいた浅草田圃であった。
五区奥山にあった玉乗り、軽業、こままわし、操り人形などの見世物が六区に移ってきた。そののち、六区ではいずれも日本初となる、活動写真の上映や常設映画館・電気館の開館、カラ―キネマの上映(1913《大正2》年、キリン館において)などが続き、映画館街として繁栄した。映画以外にも、寄席、小芝居、女剣劇、レビュー、オペラ、軽演劇など日本の大衆芸能をリードした。
*凌雲閣(十二階):1890(明治23)年に東京における高層建築の先駆けとなる12階建ての凌雲閣が完成。蒸気で動く日本初のエレベーター(エレベートルと呼んだ)が設置された。建物の高さは、当時国内でもっとも高い67m。エレベートルは故障が多く1年で使用禁止となり、ラセン階段で頂上まで上ることになった。
*浅草オペラ:1917(大正6)に常盤座に始まる。イタリア人ローシーが帝劇で、モーツアルトの「魔笛」を公演したが、日本人のオペラ歌手は、その域に達するには遠く及ばなかった。それを伊庭孝がコミックオペラに方向転換し、帝劇時代の歌手たちが参加して、浅草で開花した。1920年ころ、オペラの常設館となった日本館とそれに対抗する金龍館と競い合い、浅草オペラは最盛期を迎えた。
*カジノフォーリー:1930年代の浅草のエロ・グロ・ナンセンス文化を代表する。エノケンが活躍。日本最初のストリップ・ショーを演じた。
*笑いの天国:1932(昭和7)年に常盤座を本拠として旗揚げする。徳川夢声、古川ロッパ、菊田一夫らが活躍。
関連リンク | 浅草観光連盟(WEBサイト) |
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参考文献 |
浅草観光連盟(WEBサイト) 「浅草においでよ!」2008 浅草商店連合会 「絵と写真でたどる台東の文化と観光」2007 台東区 「台東ぶらり散歩 創業百年を迎える老舗を訪れる」2011 台東区観光課 「TAITO 区勢概要」2009 台東区総務部区長・広報室 |
2025年06月現在
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