大國魂神社
大國魂神社 内の資源
京王線府中駅から南へ約150本のケヤキ並木を通って大鳥居まで300m、またはJR武蔵野線・南武線府中本町駅の改札を出て東に100mほどのところにある。同社の縁起*1では創建は、111(景行天皇41)年と伝えているものの定かではない。ただ、同社については、律令制度が整いつつある7世紀末から8世紀前半に隣接地に武蔵国の国府*2が置かれたため、国府(国衙)の祭事神事を担っていたとされ、その後、国司が武蔵国内の著名の神、六所を1ケ所に勧請して合祀し、総社としたため大規模なものとなったといい、六所宮*3と呼ばれていた。江戸時代に至っても、徳川家康が社領五百石を寄進し、その後も徳川幕府は厚く保護した。1871(明治4)年に、神仏分離政策の影響もあって「武蔵総社六所宮」から「大國魂神社」と称したため、大國魂神社と改称された。
境内には寛文年間(1661~73)造営の本殿(慶応・昭和年間に修復)をはじめ、拝殿(1885《明治18》年改築)・鼓楼(1854《嘉永7》年再建)・宝物館*4などの社殿・建造物があるほか、隣接して府中市立ふるさと府中歴史館*5がある。また、同社の西側、JR府中本町駅寄りには国府跡に「国司館と家康御殿史跡広場」が設けられている。
年中行事としては、くらやみ祭(4月30~5月6日)が知られる。
境内には寛文年間(1661~73)造営の本殿(慶応・昭和年間に修復)をはじめ、拝殿(1885《明治18》年改築)・鼓楼(1854《嘉永7》年再建)・宝物館*4などの社殿・建造物があるほか、隣接して府中市立ふるさと府中歴史館*5がある。また、同社の西側、JR府中本町駅寄りには国府跡に「国司館と家康御殿史跡広場」が設けられている。
年中行事としては、くらやみ祭(4月30~5月6日)が知られる。

みどころ
江戸後期の「江戸名所絵図」では18ページに及ぶ記事と挿絵が掲載されており、記事では祭神から社殿、縁起、年間行事を詳細に解説し、挿絵では広大な境内に社殿が多数建ち並ぶ様を描き、年中行事も数多く紹介されている。いかに当時の「六所宮」、現在の大國魂神社が庶民の崇敬を集め、観光名所だったかが分かる。
京王線府中駅から、ビルや商店が建ち並ぶ目抜き通りを行くと、正面に大鳥居、そこから石畳の参道が数百m続き、随身門、中雀門をくぐると、ようやく拝殿に至る。境内がいかに広く、多くの参拝客が集まることを実感できる。本殿は垣間見ることしかできないが、朱塗りが美しく、北向き*6であることも珍しい。
帰りには宝物殿やふるさと府中歴史館をのぞいてみたい。徳川家などからの崇敬がどれほど篤かったかを知ることができる。また、境内の東側には国指定史跡の武蔵国府跡があり、同社と関係が深かった武蔵国府についても理解を深めることができる。
京王線府中駅から、ビルや商店が建ち並ぶ目抜き通りを行くと、正面に大鳥居、そこから石畳の参道が数百m続き、随身門、中雀門をくぐると、ようやく拝殿に至る。境内がいかに広く、多くの参拝客が集まることを実感できる。本殿は垣間見ることしかできないが、朱塗りが美しく、北向き*6であることも珍しい。
帰りには宝物殿やふるさと府中歴史館をのぞいてみたい。徳川家などからの崇敬がどれほど篤かったかを知ることができる。また、境内の東側には国指定史跡の武蔵国府跡があり、同社と関係が深かった武蔵国府についても理解を深めることができる。

補足情報
*1 縁起:同社の縁起は1624(寛永元)年に神官家の猿渡盛道によって論考され、まとめられた「六所宮縁起」などが基となっている。ただ、朝廷が認める有力な神社を記載した平安中期の延喜式神名帳には同社の名は記載されておらず、「六所宮縁起」では、同じ「多磨郡」の「小野神社(現・府中市住吉または多摩市一宮)」をこれに宛てており、また、これとは別に「大麻止乃豆乃(オホトノツノ)天神社(現・稲城市)」を挙げる説もあって、古代草創期の同社については詳しいことは分かっていない。
*2 武蔵国の国府:大國魂神社の境内地及び周辺地域に武蔵野国の国府跡がある。発掘調査により、国府の中心部には大型の東西棟2棟、その西に南北棟3棟の建物が整然と並んでいたことが分かっている。このうち北側の東西棟の建物は、国庁等、国府の主要施設の建物と考えられている。造営した時期は8世紀前半頃とされる。国府の範囲は東西約2.2km、南北1.8kmだったと思われ、武蔵国の郡名が書き込まれた瓦や磚(せん・レンガ)が出土している。
*3 六所宮:六所宮のように有力神社を合祀した神社を総社と呼ぶが、これは「国司が国内の諸社を巡拝する労を省略するために国内の諸神社の祭神を一か所に合祀したもの」だとされる。「総社」という名称が文献上みられるようになるのは、平安時代後期で、「六所宮」の名は鎌倉時代の「吾妻鏡」であるとされる。これらから鑑みると、「総社」は平安中期頃、「六所宮」は平安末期頃の成立とみられる(遠藤吉次「わが町の歴史府中」)。
六所宮を継承する大國魂神社が合祀している祭神は、歴史的には異動があるものの、「大國魂大神」と一ノ宮から六ノ宮まで、すなわち「小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神」が祀られている。なお、武蔵国の一ノ宮について「氷川神社」が挙げられることが多いが、これについては「氷川神社は武蔵国の一ノ宮であり、小野神社は国府の六所宮の一ノ宮であるとするもの」だと江戸後期の「六所宮」の神主猿渡容盛が説明している。
*4 宝物館:例大祭に渡御する御輿、大太鼓を1階に納め、2階に木造狛犬、徳川家朱印状、寛永元年六所宮縁起などの収蔵品を展示。入館有料。
*5 府中市立ふるさと府中歴史館:大國魂神社参道脇の国史跡武蔵国府跡の中にある。武蔵国府跡やその関連遺跡の発掘調査の成果、古代国府を中心とした市の歴史・文化を紹介している。入館無料。
*6 北向き:1051年(永承6)年に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めた。朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治める意味があったからだとされる。
*2 武蔵国の国府:大國魂神社の境内地及び周辺地域に武蔵野国の国府跡がある。発掘調査により、国府の中心部には大型の東西棟2棟、その西に南北棟3棟の建物が整然と並んでいたことが分かっている。このうち北側の東西棟の建物は、国庁等、国府の主要施設の建物と考えられている。造営した時期は8世紀前半頃とされる。国府の範囲は東西約2.2km、南北1.8kmだったと思われ、武蔵国の郡名が書き込まれた瓦や磚(せん・レンガ)が出土している。
*3 六所宮:六所宮のように有力神社を合祀した神社を総社と呼ぶが、これは「国司が国内の諸社を巡拝する労を省略するために国内の諸神社の祭神を一か所に合祀したもの」だとされる。「総社」という名称が文献上みられるようになるのは、平安時代後期で、「六所宮」の名は鎌倉時代の「吾妻鏡」であるとされる。これらから鑑みると、「総社」は平安中期頃、「六所宮」は平安末期頃の成立とみられる(遠藤吉次「わが町の歴史府中」)。
六所宮を継承する大國魂神社が合祀している祭神は、歴史的には異動があるものの、「大國魂大神」と一ノ宮から六ノ宮まで、すなわち「小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神」が祀られている。なお、武蔵国の一ノ宮について「氷川神社」が挙げられることが多いが、これについては「氷川神社は武蔵国の一ノ宮であり、小野神社は国府の六所宮の一ノ宮であるとするもの」だと江戸後期の「六所宮」の神主猿渡容盛が説明している。
*4 宝物館:例大祭に渡御する御輿、大太鼓を1階に納め、2階に木造狛犬、徳川家朱印状、寛永元年六所宮縁起などの収蔵品を展示。入館有料。
*5 府中市立ふるさと府中歴史館:大國魂神社参道脇の国史跡武蔵国府跡の中にある。武蔵国府跡やその関連遺跡の発掘調査の成果、古代国府を中心とした市の歴史・文化を紹介している。入館無料。
*6 北向き:1051年(永承6)年に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めた。朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治める意味があったからだとされる。
2025年06月現在
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