三社祭
山王祭、神田祭や深川八幡祭などと並ぶ江戸の大祭で、浅草神社*1の例祭である。毎年5月の第3土曜日を中心として、3日間行われる。金曜日の初日は、お囃子屋台や鳶頭木遣り、芸子連の手古舞・組踊などが練り歩く、祭の名物「大行列」があり、古式豊かな神事「びんざさら舞」*2も奉納される。2日目の土曜日は、神事として「例大祭式典」が行われ、そのあとに氏子44ヶ町の「町内神輿連合神輿」100基余りのお神輿が神社で御祓いを受けるため、境内に集合し、各町内へ巡幸渡御する。最終日の日曜日早朝には祭神である「一之宮」「二之宮」「三之宮」(真中知命・浜成命・武成命)の宮神輿3基の宮出しが行われ、氏子町内を三方に分かれて練り歩き、日没後には「宮入り」する。
祭の起源については、縁起によると、1312(正和元)年に神託があり、祭神三神が自らの本地仏は「我は是阿弥陀三尊*3」とし、「神託によりて神輿をかざり奉り、船祭*4の祭禮をいとなみ、天下の安寧を祈り奉るもの也」としたことから、当初は船祭(渡御)が行われ、山車の巡幸が中心だったという。こうした形式の祭礼が江戸末期まで続いたとされ、祭の催行は旧暦の3月17日、18日だった。神仏習合の祭であったので「三社権現祭」あるいは「観音祭」とも称された。明治に入り、5月の開催となり、船祭(渡御)が廃止され、現在のように神輿の氏子町内の巡幸、渡御が中心となった。
祭の起源については、縁起によると、1312(正和元)年に神託があり、祭神三神が自らの本地仏は「我は是阿弥陀三尊*3」とし、「神託によりて神輿をかざり奉り、船祭*4の祭禮をいとなみ、天下の安寧を祈り奉るもの也」としたことから、当初は船祭(渡御)が行われ、山車の巡幸が中心だったという。こうした形式の祭礼が江戸末期まで続いたとされ、祭の催行は旧暦の3月17日、18日だった。神仏習合の祭であったので「三社権現祭」あるいは「観音祭」とも称された。明治に入り、5月の開催となり、船祭(渡御)が廃止され、現在のように神輿の氏子町内の巡幸、渡御が中心となった。

みどころ
祭り好きの下町っ子の血を湧き立たせる名物行事である。明治の小説家で翻訳家の柴田流星は「凡(およ)そ江戸ッ児 として、大若小若の灯、 樽天王を見て気勢わぬものは一人もなく、ワッショイ!ワッショイ!ワッショイ!の声を聞いては、誰しも家の内にジッとしておらるるものでない。大方は飛び出して、いつか己れもその群に立ちまじり、至極真面目な顔でいた男のワッショイ!ワッショイ!を聞くことよくあることだ。 まァさ、そう馬鹿にしないで、その無邪気と赤裸々とを買ってお貰い申したい」と、三社祭と江戸っ子の結びつき、相性を活写している。
なんといっても祭りの最大の呼びものは、柴田が活写した勇壮な神輿の渡御。とくに祭神三神の三基の大神輿が掛け声とともに担ぎ上げられるさまは勇壮そのもの。浅草周辺多くの見物客で溢れ、祭りの熱気で埋めつくされてしまう。
なんといっても祭りの最大の呼びものは、柴田が活写した勇壮な神輿の渡御。とくに祭神三神の三基の大神輿が掛け声とともに担ぎ上げられるさまは勇壮そのもの。浅草周辺多くの見物客で溢れ、祭りの熱気で埋めつくされてしまう。

補足情報
*1 浅草神社:創建は権現思想が広まった、平安末から鎌倉初期と見られるが不詳。社伝によれば、浅草寺開創後、聖観世音菩薩像の発見に関わった土師(はじ)氏の末裔に夢告があり、浅草寺観音堂の傍らに観音像の発見した檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)と土師真中知(はじのまつち)を鎮守し、「三社権現」として祀れば、子孫繁栄、郷土の安堵などが約束されるとされ、それを受けて三社権現社が創建された。江戸時代には三社大権現社と称され、明治の神仏分離により浅草神社と号するようになった。なお、本殿・幣殿・拝殿は国指定重要文化財に指定されており、1649(慶安2)年頃の建立で、浅草寺が火災に遭ったあと、再建された時に同時に造立されたとみられる。
*2 「びんざさら舞」:この祭の当初からあった神事だと伝えられ、千束町内の氏子が奉仕をつづけてきたもので、舞人が綾藺笠(あやいがさ)、水干差貫(すいかんさしぬき)の装束で獅子舞、田楽を演じる。獅子舞三番のあとが「びんざさら舞」。「種まき」、田植えを表す「肩ぞろえ」、ツグミが害虫をとる所作の「鳥馬口」、豊年の喜びを示す「蹴合い」とつづく。笛・太鼓と、108枚の小さな桧板を紐に通した「びんざさら」と呼ばれる拍板を使い、その拍子に合わせて舞う優美なものである。びんざさら役3名のほか、摺太鼓役2名、笛役、大太鼓役各1名、獅子6名によって演じられる。
*3 阿弥陀三尊:神仏習合の影響で、祭神三神それぞれ、「真中知命」が阿弥陀如来、「浜成命」が観音菩薩、「武成命」が勢至菩薩が本地仏だとされた。
*4 船祭:江戸後期の地誌「江戸名所図会」では「(三月)十七日に三社の神輿を本堂へうつし(堂上げ)、拍板『ビンザサラ』獅子舞あり。當(当)日は神輿を浅草の大通りを渡し(堂下げ)、浅草橋に至る。それより船に乗じ、歸(帰)輿は駒形より上らせらる。此日舊(旧)例として、武州六郷、大森等の海村より猟(漁)船を出し、かしこより漁人來りて、これを供奉す」としている。
*2 「びんざさら舞」:この祭の当初からあった神事だと伝えられ、千束町内の氏子が奉仕をつづけてきたもので、舞人が綾藺笠(あやいがさ)、水干差貫(すいかんさしぬき)の装束で獅子舞、田楽を演じる。獅子舞三番のあとが「びんざさら舞」。「種まき」、田植えを表す「肩ぞろえ」、ツグミが害虫をとる所作の「鳥馬口」、豊年の喜びを示す「蹴合い」とつづく。笛・太鼓と、108枚の小さな桧板を紐に通した「びんざさら」と呼ばれる拍板を使い、その拍子に合わせて舞う優美なものである。びんざさら役3名のほか、摺太鼓役2名、笛役、大太鼓役各1名、獅子6名によって演じられる。
*3 阿弥陀三尊:神仏習合の影響で、祭神三神それぞれ、「真中知命」が阿弥陀如来、「浜成命」が観音菩薩、「武成命」が勢至菩薩が本地仏だとされた。
*4 船祭:江戸後期の地誌「江戸名所図会」では「(三月)十七日に三社の神輿を本堂へうつし(堂上げ)、拍板『ビンザサラ』獅子舞あり。當(当)日は神輿を浅草の大通りを渡し(堂下げ)、浅草橋に至る。それより船に乗じ、歸(帰)輿は駒形より上らせらる。此日舊(旧)例として、武州六郷、大森等の海村より猟(漁)船を出し、かしこより漁人來りて、これを供奉す」としている。
関連リンク | 浅草神社 三社様(WEBサイト) |
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参考文献 |
浅草神社 三社様(WEBサイト) 「文化遺産データベース 浅草神社のびんざさら 」文化遺産オンライン(文化庁)(WEBサイト) 「失われた江戸を求めて『残されたる江戸 夏祭り』 」柴田流星 kindle版 浅草神社奉賛会 三社祭公式情報(WEBサイト) 「江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)」昭和2年 215/297 国立国会図書館デジタルコレクション |
2025年06月現在
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