深川八幡祭りふかがわはちまんまつり

富岡八幡宮の例祭で8月15日の前後に行われる。期間中には種々の神祭事*が行われるが、見せ場は神輿*渡御である。3年に1度の本祭りでは、八幡宮の祭神が遷座した鳳輦が渡御し、その翌日に御礼として本社一の宮神輿(現在は担ぎ手の関係で二の宮神輿)と町内の神輿渡御が行われる。その翌年は本社二の宮神輿渡御、本祭りの前年に当たる翌々年には子供神輿連合渡御が行われる。本祭りでは、台輪幅五尺1.5m、高さ約4m、重量4.5tの千貫神輿である本社一の宮神輿が鳥居脇に展示され、本社二の宮神輿はじめ53基の町神輿が勢揃いして巡幸し、練り歩く。
 神輿巡幸は当宮をスタートして永代通りを東に向かい、大門通り、江戸資料館通り、清州橋通り、清州橋を渡って新川に入り、永代橋から当宮に戻るコースとなっており、所要時間は6時間ほど。
 祭りの始まり*は1642(寛永19)年、徳川幕府3代将軍家光の世嗣(長男・家綱)の成長を祈念して行われたのが初めだと言われている。当時、深川周辺の埋め立てが進み、門前町が生まれ、深浜の漁師町、木場の木材商、佐賀町の倉庫群、新川の酒問屋街などが開かれ、発展途上にあったこともあり、江戸時代を通じ盛大な祭りとなっていった。
 しかし、祭りの形態については、時代によって変化もしている。江戸後期の地誌「江戸名所図会」では「隔年八月十五日に執行す。此日神輿三基、本所一の橋、蔵舟浦(オフナグラ)前なる行祠(オタビショ)へ神幸」としているが、文政年間(1830年頃)の「寺社書上」(寺社が幕府に由来などを報告したもの)の記事について、1957年の「江東区史」では「祭礼に山車見物の行列を見物する群集のために永代橋が落下して多数がの死者」が出たため、練物が廃止になったり、神輿の渡御の廃されたり、祭りの形態の変更もあったともしている。明治以降には「氏子町内で立派な神輿をつくり深川祭は東京の名物」になったが、その後、関東大震災、昭和の戦災で多くの神輿などを失い、戦後、改めて氏子たちの尽力で復活し、伝統を守りつつ、現在の祭りの形式形態になった。
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みどころ

この祭りの特色は、沿道からの清めの水掛けだ。53基の大神輿が迫力ある練り歩くなか、その熱気に水掛けを行い、さらに盛り上げていく。まさに「水掛け祭り」と称されているのが良く分かる。神輿を担ぐ伝統的な「ワッショイ、ワッショイ」の威勢の良さや、絢爛豪華な神輿が揺れながら練り歩く姿は圧巻。江戸初期の創建以来、富岡八幡宮は大火、地震、空襲などでたびたび焼失、崩壊したが、そのたびに氏子たちの力で復活・復興を遂げてきた。この祭りはそのことを象徴している。
 見学場所としては、混雑は予想されるが、やはり、朝7時半から9時ころまでに53基の神輿が次々と出発していく当宮前の永代通りだろう。当日はこの付近の飲食店もこの時間帯から営業しているところがあるので、祭り気分溢れる中、朝から深川の味や酒を楽しむのも一興。
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補足情報

*種々の神祭事:2023年8月の本祭りの主な神祭事の日程は以下の通りだった。
8月12日(土)神幸祭(鳳輦渡御) 8月13日(日)各町神輿連合渡御 朝御饌(あさみけ)祭
8月14日(月)朝御饌(あさみけ)祭 8月15日(火)例大祭祭典
*神輿:富岡八幡宮には紀伊国屋文左衛門が奉納した三基の御本社神輿があったが、1922(大正12)年の関東大震災で焼失。その後、1930(昭和5)年に祭神が遷座する鳳輦が制作され、現在でも本祭りの年に氏子各町へ渡御する。また八幡宮本社の神輿は、一の宮神輿が1991(平成3)年、二宮神輿が1997(平成9)年に完成した。
*始まり:1677(延宝5)年に開版された地誌「江戸名所記」にも、すでに寛永年間(1624~44年)に「はじめて祭禮(礼)をおこないたてまつりて、毎年の式とす、それよりこのかた、神徳かくあらはれ、諸人渇仰のこうべをかたぶく、島の内のぎわいて、人の家居軒をならべたり」と記されている。