富岡八幡宮
東京メトロ・都営地下鉄門前仲町駅から永代通り沿いに南東へ約300m、左に入ると参道となり、富岡八幡宮の朱塗りの大鳥居が建つ。西北隣には深川公園、深川不動堂*1などがある。境内には重層準型八幡造の本殿などの社殿や七渡神社、住吉社、恵比須社など10指に余る末社がある。菅原道真の末裔とされる僧長盛が1627(寛永4)年に創建*2したと伝えられ、「永代嶋八幡」とも呼ばれ、江戸の庶民に「深川の八幡様」として親しまれた。社殿は火災のたびごとに再興され、現在の社殿は、1956(昭和31)年の再建である。横綱力士碑*3・力持碑などの石碑や伊能忠敬銅像*4が境内に散在する。
年中行事としては例祭の深川八幡祭り(例年8月15日前後で本祭は3年に1度)が知られている。
年中行事としては例祭の深川八幡祭り(例年8月15日前後で本祭は3年に1度)が知られている。

みどころ
永代通りから入ると朱塗りの鳥居がまず目を引くが、同じ朱塗りの拝殿まで見通せ、都会のまっただ中に特別の空間が広がっている。境内を歩いていると、鳥居をくぐって右手には相撲関連の石碑が並び、本殿の向かって右手奥にも横綱力士碑などが建ち、相撲に関する石碑が目立つ。これは、江戸時代当初は幕府から禁止されていた寺社修築等の資金を募るための勧進相撲が、1684(貞享元)年に富岡八幡宮境内での開催に許可が出たことに由来するという。この地で許可された理由は、まだ新開地であった深川の開発と富岡八幡宮社殿の復興のためだったとされ、以後、境内での勧進相撲は恒例化したという。これらの石碑を巡ると、いまの近代相撲の基礎がこの地で育まれたという思いに至る。また、参道左手にあるガラス張りの神輿庫では、深川八幡祭りの際に担がれる一の宮、二の宮の巨大で金色に輝く豪奢な神輿が展示されており、これは必見。
朱塗りも鮮やかな拝殿の前には、氏子と思われる普段着姿の地元の住民がひっきりなしに訪れ、参拝していく姿をみていると、地元との密着度が高く、「江戸名所図会」にも「當(当)社門前一華表(一の鳥居)より、内三四町が間は、兩側茶肆(茶店)酒肉店(料理屋)軒を竝(並)べて、常に絃歌(三味線と歌声)の聲(声)絶えず…中略…牡蠣、蜆、花蛤、鰻_魚(うなぎ)の類を此地の名産とせり」とあるように、江戸時代から参詣客が多かったことが分かる。現在も門前には、ざっくりと切った葱と生のあさりを味噌で煮込み、熱いご飯にぶっかけた名物の「深川めし」を提供する店も点在する。
朱塗りも鮮やかな拝殿の前には、氏子と思われる普段着姿の地元の住民がひっきりなしに訪れ、参拝していく姿をみていると、地元との密着度が高く、「江戸名所図会」にも「當(当)社門前一華表(一の鳥居)より、内三四町が間は、兩側茶肆(茶店)酒肉店(料理屋)軒を竝(並)べて、常に絃歌(三味線と歌声)の聲(声)絶えず…中略…牡蠣、蜆、花蛤、鰻_魚(うなぎ)の類を此地の名産とせり」とあるように、江戸時代から参詣客が多かったことが分かる。現在も門前には、ざっくりと切った葱と生のあさりを味噌で煮込み、熱いご飯にぶっかけた名物の「深川めし」を提供する店も点在する。

補足情報
*1 深川不動堂:千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。開創は寺伝では1703(元禄16)年とされ、成田山新勝寺の本尊不動明王を江戸で出開帳したのが始まりとされる。明治期に入り、成田山の不動明王を分霊し正式に遷座した。
*2 創建:同社の創建については、1627(寛永4)年以前から小祠があったとされ、文政年間(1830年頃)の「寺社書上」(寺社が幕府へ由緒などを報告したもの)では、長盛が「八幡宮旧社再興」したとしている。さらに、江戸後期の地誌「江戸名所図会」にも「今當(当)社より十二丁ばかり東の方砂村の海濱(浜)に、元八幡宮と稱(称)する宮居あり。當(当)社の舊(旧)地といふ。」とある。また、1957(昭和32)年の「江東区史」では「徳川の初め、この深川一帯はまだ東京湾に点在する砂洲の集団といった有様で、各所に葭葦が生茂り、住民も至って少く…中略…芦荻の間に小祠あり、御扉を披き見るに、中にはご神体らしくものなく、只白羽の御矢一本が納められてあつた」としており、長盛は得ていた夢告と同じであったので、ここに八幡宮を勧請したと「富岡八幡宮縁起」の内容を紹介している。1627(寛永4)年以前の経緯については諸説あり不詳である。
*3 横綱力士碑:本殿の向かって右手奥に立っている。高さ3.5m、幅3m、重さ20t余りもある立派なもので、裏面に歴代横綱の氏名が刻まれている。巨人力士身長碑は江戸時代からの力士で身長2m以上あった12人の名が刻まれ、名前の上にある線が背の高さを示す。なお、参道左手には力持碑があり、江戸時代から深川の倉庫業者蔵方(くらかた)で行われた力競べの曲技を記念し、傍らにその由来が記されている。
*4 伊能忠敬銅像:江戸時代後期の測量家・伊能忠敬の銅像が境内大鳥居横に建立されている。忠敬は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたり当八幡宮を参拝していたといわれている。
*2 創建:同社の創建については、1627(寛永4)年以前から小祠があったとされ、文政年間(1830年頃)の「寺社書上」(寺社が幕府へ由緒などを報告したもの)では、長盛が「八幡宮旧社再興」したとしている。さらに、江戸後期の地誌「江戸名所図会」にも「今當(当)社より十二丁ばかり東の方砂村の海濱(浜)に、元八幡宮と稱(称)する宮居あり。當(当)社の舊(旧)地といふ。」とある。また、1957(昭和32)年の「江東区史」では「徳川の初め、この深川一帯はまだ東京湾に点在する砂洲の集団といった有様で、各所に葭葦が生茂り、住民も至って少く…中略…芦荻の間に小祠あり、御扉を披き見るに、中にはご神体らしくものなく、只白羽の御矢一本が納められてあつた」としており、長盛は得ていた夢告と同じであったので、ここに八幡宮を勧請したと「富岡八幡宮縁起」の内容を紹介している。1627(寛永4)年以前の経緯については諸説あり不詳である。
*3 横綱力士碑:本殿の向かって右手奥に立っている。高さ3.5m、幅3m、重さ20t余りもある立派なもので、裏面に歴代横綱の氏名が刻まれている。巨人力士身長碑は江戸時代からの力士で身長2m以上あった12人の名が刻まれ、名前の上にある線が背の高さを示す。なお、参道左手には力持碑があり、江戸時代から深川の倉庫業者蔵方(くらかた)で行われた力競べの曲技を記念し、傍らにその由来が記されている。
*4 伊能忠敬銅像:江戸時代後期の測量家・伊能忠敬の銅像が境内大鳥居横に建立されている。忠敬は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたり当八幡宮を参拝していたといわれている。
2025年06月現在
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