若松城(鶴ヶ城)わかまつじょう(つるがじょう)

会津若松駅の南2km、市街地の南にある。芦名直盛*が1384(至徳元)年に築城し、1593(文禄2)年蒲生氏郷*が東日本で初めて水堀や天守閣を備えた本格的な近代城郭を築き「鶴ヶ城」と命名した。東西約2km、南北約1.5kmの外郭と7層の天守閣*をもち、鶴ケ城の名にふさわしい広壮かつ優美な城郭であったという。
 藩政時代は会津松平氏*二十三万石の本城であった。慶応4年(1868)の戊辰戦争では新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐え、難攻不落の名城として知られるようになる。明治7年(1874)までに天守閣をはじめとするすべての建物が取り壊された。当時の遺構は本丸・二ノ丸・北出丸などの石垣と内堀を残すだけだが、1965(昭和40)年に天守閣を鉄筋コンクリート造りで再建した。天守閣は高さ36mで内部は5層に分かれ、最上階は展望層になっており、1~4層は若松城天守閣郷土博物館*として、様々な文化財を展示して、会津の歴史や、武家文化などを紹介している。2011(平成23)年に赤瓦へ葺替し、幕末往時の姿になる。
 また、1990(平成2)年に本丸内の一角には、千利休の子少庵が蒲生氏郷のために造ったという「茶室麟閣」*が、もともとあった場所に移築復元されている。
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みどころ

天守閣の最上階にある展望層からはぐるりと山に囲まれた会津盆地が一望できる。天守閣は鉄筋コンクリートだが、内部は博物館として鶴ヶ城の歴史や会津地方の文化、特徴などを分かりやすく展示している。また、城跡公園内には江戸期の石垣や堀、茶室などが遺されている。
 会津藩の本拠地として、政治や文化の中心となり、幕末には会津戦争の舞台となったという歴史性を有した若松城は、会津若松の街のシンボルになっている。
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補足情報

*芦名直盛:1323~1391年。源頼朝が12世紀末に東北を支配下に置き、御家人の佐原義連に会津北部が与えられた。その義連の孫光盛から芦名氏を名乗るようになった。その後13世紀に入ると、芦名家は徐々に勢力を強め会津守護としての地位を固め、直盛の時、1384(至徳元)年に、東黒川館を築城した。これが鶴ヶ城の基になったといわれている。その規模、形態は、江戸後期の『新編会津風土記』では「直盛城築の時は今の内郭のみにて外には士民雑居し又は寺院の道などありし」だったとしている。 
*蒲生氏郷:1556~1595年。豊臣秀吉に認められ、伊勢松島の城主となり、1590(天正18)年には会津を領するようになった。1593(文禄2)年加増され会津に入部し、鶴ヶ城と城下町の整備を行った。『新編会津風土記』では「甲州流の縄張等を用て内外の郭を築き中央に天守を建て多聞櫓馬出悉く具足し堞壁高く峗ち塹溝深く治りて全く府城の體をなせり」と城としての体裁を整えたことを記している。
*天守閣:『新編会津風土記』では「蒲生氏のとき肥前國名護屋にて豊臣家の建てられし所を模すと云舊七重なりしか寛永中加藤氏上の二重をこほ(毀)てり」とし、建設当初の豪壮さを記している。明治維新後、天守閣をはじめ城内の建造物は取り壊された。
*会津松平家:徳川秀忠の庶子であった保科正之が1643(寛永20)年、会津に入部。3代藩主正容の時から松平の名を許された。京都守護職で会津戦争を戦い、明治維新を迎えた容保まで9代つづいて会津地方を統治した。
*若松城天守閣郷土博物館:1層目では鶴ケ城の歴史や会津地方について概観できる展示がなされ、2層目では歴代城主の変遷、3層目では会津戦争、4層目では明治以降の会津の先人たちを紹介している。
*茶室麟閣:蒲生氏郷は、利休が豊臣秀吉に死を命じられた後、千利休の茶道が絶えることを危ぶんで、利休の子少庵を会津に匿い、秀吉には「千家再興」を願い出るほど、茶道を愛していたという。『新編会津風土記』でも「氏郷茶を好み坐つつきに小亭を營み自ら庭石を居へて數寄屋とす今二百餘年をへてその時の經營全く存す古雅幽棲のさま今時の結構に比すへからす」とこの茶室について記している。明治維新後、市内の個人宅に移築されていた。